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通勤途中に風雅な団地があり、その中に森のように美しい公園があって、毎日、目の保養となっています。今後、仕事がハードになってきますので、記事を書く時間はなくなりますが、それを機に、私はブログを離れ、主との個人的な交わりの中に生きるつもりでいます。

「わ たしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなた がたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。…わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ 15:4-5)

キリストと私たちとの関係は排他的なものです。私たちにはキリスト以外の一切の仲保者があってはなりませ ん。この先、見えるものはことごとく偽りになっていくだろうとの懸念があります。公の会堂、公のメッセージ、メッセンジャー、人々の栄光の集まるとこ ろ…、キリストに代わって仲保者となろうとする全ての目に見えるシステムがことごとく偽りと化すだろうとの予感があります。しかし、残念ながら、この目に 見えるものの中には、ブログというツールも含まれています。

これまで霊的先人の書物や、兄弟姉妹の記事には大いに助けられてきました。そ こに御霊の働きがあったことは疑いの余地がありません。しかしながら、それらのものはあくまで器に過ぎず、働かれる行為者は主なのです。ある姉妹が言いま した、「もう日本は3.11以前には戻れないのよ。後戻りできない時代に入ったの。私たちはこの先わき見せず、本当にただ主のうちにとどまり、主によって 直接、御言葉で養っていただかなくてはね。」 そうです、これからは、今まで以上に、一人ひとりがただ主ご自身だけに頼り、直接、御霊によって教えていた だかなければ、切り抜けられない時代になると感じています。

真理の内にとどまるとは、一人ひとりのクリスチャンが主のうちにとどまるこ と、人格であられ、いのちであられる主のうちにとどまり、主のいのちによって直接養われ、御霊に直接、導かれることです。どんなに優れた先人のメッセージ があったとしても、主を知るということを、誰かが”How to”として他人に伝授することはできません。もしも、誰かがそのようなもの(=主を知るため のマニュアル?)のようなものを作ろうとすると、それはことごとく偽りになってしまうでしょう。その意味で、何をおいても、私たちが御霊によって直接、教 えられるべき時代が来ていると思います。

「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
彼らの心に書きつける。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。
また彼らが、おのおのその町のものに、
また、おのおのその兄弟に教えて、
『主を知れ。』と言うことは決してない。
小さい者から大きい者に至るまで、
彼らはみな、わたしを知るようになるからである。」(ヘブル8:10-11)


「…その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:26)。

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:14)


招 かれたけれども、選ばれなかった者とならないように、ただキリストのうちにとどまり、真理の御霊によって直接、御言葉で教えていただきましょう。奴隷が主 人の手を見つめるように、鳩の目がまっすぐに主人を見つめるように、ただ主だけに目を注ぎ、この方を愛し、この方にのみ心を注ぎ出し、この方とともに、神 のうちに隠されて生きたいのです。

「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:3)
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神は神の会衆の中に立つ。
神は神々の真中で、さばきを下す。

いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、
悪者どもの顔を立てるのか。
弱い者とみなしごとのためにさばき、
悩む者と乏しい者の権利を認めよ。

弱い者と貧しい者とを助け出し、
悪者どもの手から救い出せ。

彼らは、知らない。また、悟らない。
彼らは、暗やみの中を歩き回る。
地の基は、ことごとく揺らいでいる。

わたしは言った。「おまえたちは神々だ。
おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。
にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、
君主たちのひとりのように倒れよう。」

神よ。立ち上がって、地をさばいてください。
まことに、すべての国々は、
あなたが、ご自分のものとしておられます。

(詩篇第82篇)




神よ。私をお守りください。
私は、あなたに身を避けます。
私は、主に申し上げました。
「あなたこそ、私の主。
私の幸いは、あなたのほかにはありません。」

地にある聖徒たちには威厳があり、
私の喜びはすべて、彼らの中にあります。
ほかの神へ走った者の痛みは
増し加わりましょう。

私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、
その名を口に唱えません。
主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。
あなたは、私の受ける分を、
堅く保っていてくださいます。

測り綱は、私の好む所に落ちた。
まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
私は助言を下さった主をほめたたえる。
まことに、夜になると、私の心が私を教える。

私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、
私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、
私のたましいは楽しんでいる。
私の身もまた安らかに住まおう。

まことに、あなたは、私のたましいを
よみに捨ておかず、
あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、
あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
(詩篇第16篇)



今まではそれなりに警告が有益な時代であり、議論が尽くされるほどさまざまな議論が成り立ちました。しかし、これからはⅡテモテ3:3-4にあるように、恐らく、警告が全くと言って良いほど意味をなさないほどの深い闇の時代に入るものと感じています。人々は次のように言うでしょう。

あなたが主の御名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行なって、私たちも、先祖たちも、私たちの王たちも、首長たちも、ユダの町々やエルサレムのちまたで行なっていたように、天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはその時、パンに飽き足り、しあわせでわざわいに会わなかったから。私たちが天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒をそそぐのをやめた時から、私たちは万事に不足し、剣とききんに滅ぼされた。」(エレミヤ44:16-18)

夜明け前の暗闇は非常に深いと言われています。一人ひとりが人々に嘲られながら箱舟を建設したノアのようになる覚悟が必要でしょう。巷に警告の声が絶える分だけ、一人ひとりの自己責任が重くなり、それぞれが自分で蒔いたものを自分で刈り取らねばならなくなるのです。愚かな花嫁に油を分けてくれる花嫁はいませんでした。

私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。」 毒麦は必ず主が抜いて焼かれる時が来ます。ただまっすぐに主を見つめ、聖書に立脚して、何が真理で何が虚偽であるかを識別し、真理の内にとどまりましょう。今、主ご自身が天的なエクレシアの実際を私たちに教えて下さろうとしていることを疑いません。

いと高き方の隠れ場に住む者は、
全能者の陰に宿る。

私は主に申し上げよう。
「わが避け所、わがとりで、
わたしの信頼するわが神。」と。

主は狩人のわなから、
恐ろしい疫病から、
あなたを救い出されるからである。

主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。
あなたは、その翼の下に身を避ける。
主の真実は、大盾であり、とりでである。

あなたは夜の恐怖も恐れず、
昼に飛び来る矢も恐れない。
また、暗やみに歩き回る疫病も、
真昼に荒らす滅びをも。

千人が、あなたのかたわらに、
万人が、あなたの右手に倒れても、
それはあなたには、近づかない。
あなたはただ、それを目にし、
悪者への報いを見るだけである。

それはあなたが私の避け所である主を、
いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

わざわいは、あなたにふりかからず、
えやみも、あなたの天幕に近づかない。
まことに主は、
あなたのために、御使いたちに命じて、
すべての道で、あなたを守るようにされる。

彼らは、その手で、あなたをささえ、
あなたの足が、
石に打ち当たることのないようにする。
あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、
若獅子と蛇とを踏みにじろう。

彼がわたしを愛しているから、
わたしは彼を助け出そう。
彼がわたしの名を知っているから、
わたしは彼を高く上げよう。
彼が、わたしを呼び求めれば、
わたしは、彼に答えよう。
わたしは苦しみのときに彼とともにいて、
彼を救い彼に誉れを与えよう。

わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、
わたしの救いを彼に見せよう。




「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22:2) 

「愛はどんなものでも良いものだ」と考え、「どんな人でも、可能な限り、愛するのがキリスト者の使命だ」と思いこんでいるクリスチャンが多く存在します。しかし、このような考えは、以下で説明するように、大きな誤りなのです。

これまでにも述べて来たことですが、愛情には異なる種類のものがあります。一つはアダムの天然の命(魂)から出て来る愛であり、それは生まれながらの人間の自己を喜ばせようとする動機、自己保存の動機に基づいており、決して神の御心を満足させることができません。もう一つは、キリストのまことの命から出て来る、聖く、汚れない愛情であり、自己が十字架で死に渡された上で、御霊によって生まれるこの愛だけが、神の御心を真に満足させることができます。

結論から言うならば、私たちの天然の魂から出て来る愛情は、アダムの命に属する古き人から出て来るものであって、どこかの時点で、ことごとく十字架の死の刻印を経なければなりません。十字架を経ていない愛情は、人の目にどんなに麗しいものに見えても、決して、神の御前に喜ばれることはありませんし、永遠に至る実を結ぶことができないのです。

私たちの愛はことごとく、神の試みを経て、十字架の死のテストに合格しなければなりません。私たちが真に神の愛で人を愛せるようになるのはそれから後のことです。しかし、これは人にとって、とてもつらいことだと言わざるを得ません。

アブラハムはモリヤの山で、最も大切な一人息子イサクに対して刀を振り上げることを神に求められました。世間は問うでしょう、一体、これは正気でしょうか? 彼は息子への愛を失ったのでしょうか? こんな風に人間にとって脅威になる行動をさせるのが、神の愛なのでしょうか? 彼の行動は、愛に基づいたものだと呼べるのでしょうか?

いいえ――私たちキリスト者は知っています――アブラハムの天然の魂から出て来る愛は、一旦、十字架ではりつけにされ、死の刻印を経なければなりませんでした(そこで屠られたのは、イサクであると同時に、アブラハムの天然の魂の愛情でした)。十字架を経て初めて、彼の愛は、御霊によって、神の御前に良しとされ、そして彼の天然の愛の死が、多くの国民という、永遠に至る実を結ばせるための、葬られた一粒の麦となったのです。

私たちクリスチャンの愛情も、一旦、十字架で屠られねばなりません。そうでなければ、神の愛に合致する愛となりません。どれくらいの人々がこのことを知っているでしょうか? このような試みを経るまで、私たちは自分には思うがままに人を愛する権利があると思っており、それを手放すことを願いません。そして、私たちはしばしば思うがままに天然の魂の愛でクリスチャンを愛し、失敗するのです。神が願っておられることは、私たちが旧創造から出て来る愛で、旧創造を愛し、旧創造を保とうとすることではないのだと知り、自分自身の生来の魂から出て来る愛情がことごとく十字架ではりつけにされねばならないと分かるまで、どれほどの失敗を経なければならないことでしょうか。

試みを経るまで、私たちは自分が愛だと思っているものに、すっかりうぬぼれています。自分は何と人を愛しうる、心の広い人間なのだろうかと思い、自分の感情に酔いしれ、自分を愛してくれる人々にすっかり満悦し、あまつさえ、そのような愛を、他人にまで強制しようとする有様です。しかし、試みを経た後では、もうそのような押しつけがましい愛情を二度と誰にもひけらかしたいとは願わないでしょう。私たちの魂は十字架につけられ、以前の自分の思いと行動を振り返って恥じ入ります。そして、私たちはもはや以前のように勝手気ままに人を愛することを願いません。私たちは魂の衝動を恐れ、警戒し、自分の天然の魂が十字架につけられることを自ら願います。

私たちの愛は、自分自身から解かれなければなりません。私たちの愛は、自分自身の手を離れて、主の愛とされなければなりません。ですから、真に主に従う意志があるならば、私たちは人生のどこかで、アブラハムと同じように、モリヤの山を通過せねばならないのです。自分が最も愛しているもの、「良き感情だ」と思っているものを根こそぎ捧げるよう求められ、自分の天然の魂の愛情に御言葉の徹底的なメスが入れられるのを忍び、以前には最も大切にしていたものが、価値のない、役に立たない、死んだ行ないとして剥ぎ取られ、取り除かれることに同意しなければなりません。

これは人にとって葬りの期間にも等しいものです。自分の愛していたものすべてに対して死んで、自分の心のすべてがただ神のみに捧げられ、自分の愛が聖別されるまで、ずっと耐え忍ばなければなりません。それからでなければ、誰をも愛することができないのだとようやく分かるのです。それは、初めはつらいことに思われるでしょう。キリスト者になったということは、自分のすべてが神に捧げられたということを意味していますから、もはや、自分の愛したい対象を思うがままに愛する権利はないのですが、そのことを知らないうちは、思うがままに心惹かれる対象を愛そうとして、失敗を繰り返すのです。そして、実はそんなことは少しも御心ではなく、それが神が私たちに望んでおられる愛ではなかったのだということにようやく気づくのです。

その山を通過するまでの間、愛情を手放すことは、私たちにとって苦しいことです。私たちの宝のあるところに心もあるからです。私たちの天然の魂は、自由に愛する権利を手放したくないと、自分の宝にしがみつき、御旨に従いたくない、と駄々をこねるでしょう。しかし、それでも、神は私たちをあきらめられません。私たちが試みられて、長い交渉の末に、自分の天然の愛を手放し、従順を学んだその後でようやく、神は私たちに御心にかなう、御霊による愛とは何であるか、徐々に教えて下さいます。

このような時が来るまで、私たちはどんなに口先で「愛」、「愛」と唱えていたとしても、実際には、その主張はやかましいドラや、うるさいシンバルと同じで、神が私たちに望んでおられる愛からはかけ離れた、腐敗した何かでしかありません。神の愛とは何であるのか知るために、ここでも避けることができないのが、十字架なのです。

以下は、ウォッチマン・ニー著、キリスト者の標準、pp.286-289より

「魂は種々の愛情の座です。私たちの決心と行為のいかに大きな部分が、これらの愛情に左右されていることでしょう。もちろん、それらの愛情自体には、徹底して罪深いというものはありません。ただ、私たちのうちには、生来の愛情を通してほかの人の所に出て行き、その結果、私たちの行為の全コースに悪い影響を与えてしまうようなものがあることを言っているのです。

従って、私たちに提示されている四つの聖句の第一において、主はわたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七、三八)と言われねばならなかったのです。十字架の道において主に従うことこそ、私たちに対する正常な、そして唯一の主の道として定められていることに、注意したいものです。

この御言葉のすぐ後につづくものは、自分の命(魂―英訳)を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命(魂―英訳)を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ一〇・三九)という御言葉です。私たちの主は、ピリポ・カイザリヤにおいて、御自身がやがてユダヤの長老たちの手によって死に渡されることを、弟子たちに告げられたばかりでした。

その時、ペテロが、主に対する心からの愛をもって、主をいさめました。「主よ、そのようなことをなさってはいけません。御自愛なさって下さい。そのようなことは決しておこりはいたしません。」ペテロは主を愛するからこそ、主に御自分の命を救うようにと訴えたのです。しかし、主はあたかもサタンをとがめるかのように、ペテロが神のことを思わずに人のことを思うといって、ペテロをいましめられたのです。そして、そこにいるすべての者に、次の言葉を重ねて語られたのです。

だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者はそれを救うであろう」(マルコ八・三四、三五)

ここでも問題のすべては魂です。この場合は、特に魂の自己保存に対する欲求について述べてあります。そこには「もし生きることが許されるならば、私はなんでもする。どんなことでも喜んでする。とにかく私は生きなければならない」という魂の巧妙な働きがあります。そこにおいて、魂は助けを求めて叫ばんばかりです。「十字架のもとに行って、十字架につけられる――ああ、それはあまりにも大きな犠牲だ。自分自身をあわれめ。おまえは、自分の意志に反してまで神と共に行こうというのか。

神と共に進むためには、多くの場合、自分自身の声にしろ他人の声にしろ、魂の叫びに逆らって進み、自己保存の訴えを沈黙させるために十字架を介入せねばならないということを、ある人々はよく知っています

私は神のみこころを恐れているでしょうか。私の人生の途上において、非常に大きな影響をもたらした愛する聖徒のことを、私はすでに述べました。その人は、私に何度も「あなたは神のみこころが好きですか」とたずねました。これは恐ろしい質問です。彼女は、「あなたは神のみこころを行なっていますか」とはたずねず、常に「神のみこころが好きですか」とたずねたのです。

この質問は、他の何ものよりも深く切りつけます。私は彼女が一度、ある事がらで主と争っていたことを覚えています。彼女は、主が何を望まれているのか知っていました。そして彼女もまた、心の中ではそれを望んでいたのです。しかしそれは困難なことでした。私は彼女がこのように祈ったのを聞きました。「主よ、私はそれが好きではないことを告白します。けれどもどうか、私の願いに譲歩しないで下さい。主よ、少し待って下さい。そうすれば、あなたのみこころに必ず譲歩いたしますから。」

この聖徒は、主が彼女の前に譲歩して、彼女への要求を弱められることを欲しなかったのです。ただ主をお喜ばせするということが、彼女にとって唯一の願いであったのです。

多くの場合、私たちは神の御旨がなされるために、私たちが善であり貴重であると思うものを――たとえそれが神御自身に関するものであっても――進んで放棄するところまで来なければなりません。ペテロの関心は主に対するものであり、主に対する生来の愛によって表わされました。あえて主をいましめるとは、ペテロは主に対する驚くほどの愛を持っていたに違いないと私たちは思います。強い愛のみが、このような思いきったことをなすことができると、私たちは考えます。なるほどそうでしょう。

しかし、もし魂という不純物が混じっていない純粋な霊のみが存在するならば、あなたはペテロの間違いを犯すことはあり得ませんそして神のみこころを認め、みこころのみがあなたの心中に深い喜びをもたらすということを発見するでしょうまたあなたは、もはや肉に同情して涙を流すことさえないのです。まさしく主の十字架は深く切り込みます。そして私たちは、ここにおいても、十字架が魂を徹底的に処理しなければならないことを知るのです。

 



「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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