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「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」 (エフェソ5:15-17)

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4:2)

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマ12:18)

我が国には「帯に短し襷に長し」などという言い回しがあるが、キリスト者の人生は、これとは正反対であって、すべてに「ちょうど良し」というものであるか、もっと言えば、「必要を満たして余りがある」というものである。

時間についても、同様のことが言える。キリスト者は、神の御心をとらえようと、目を覚まして歩んでさえいるならば、不注意でタイミングを逸したと思うような時でさえ、まるで時間軸を逆走するようにして、失った時間を追うことができる。

このようなことを言えば、「あなたは気でも違ったのですか、何をおっしゃられているのか全く分かりません」という答えが返って来そうだが、これは本当のことなのである。

これをたとえるならば、あなたが予め時刻表を調べて、ある電車に乗車するはずだったところ、駅に到着が遅れて電車に乗り遅れたとしよう。その電車を乗り過ごすと、時間通りに目的地に着けなくなり、あなたの予定は台無しになる。そう思ってあなたが悔やんでいると、どういうわけか、乗り過ごした電車よりも、もっと早く目的地に着く電車が、少しばかり予定時刻に遅れて駅に到着した。あなたは運よくそれに乗車でき、結果的に、遅れを完全に取り戻したどころか、予定時刻よりもはるか前に目的地に着いてしまった、といった具合である。

主にあって、贖われている者は、何事についても、足りないとか、間に合わないということがなく、決して手遅れだと悔やむ必要がない。むしろ、決して手遅れだと自分で認めてはいけないのであって、遅れているように見える時でも、御心を掴むために走り続けていると、多くの場合、遅れたと思ったその時間さえ、取り返すことができる。

そもそもアダムとエバがエデンの園で神に従うことに失敗してから、人類史においては、気の遠くなるような途方もない回り道と遅れだけが続いている。初代教会においては目覚ましい信仰が見られたかも知れないが、今はどうだろう。現代教会史もまた遅れそのものに見える。

この無意味な回り道、終わりのない堂々巡り、延々と続く遅刻状態から、どうやって輝かしい目的の達成などが生まれて来ようか、と人は思うだろう。ところが、神は人類の堕落や、信仰の先人たちや、教会史に溢れるおびただしい失敗といった回り道のことなど、全く意に介しておられない。

今日という極めて悪い時代にも、堂々巡りと回り道と失敗の連続にしか見えない歴史の只中から、神はいつでも熱心に御心を求める者たちのために、完全な御業をなして下さることがおできになるのであって、それは今日の私たちにもまさに当てはまることを、私たちは心に留め、かつ信じる必要がある。

私たちは、どんなに機会を逸したと感じるような時でも、決して後悔することなく、御心を熱心に追い求めることをやめるべきではない。どんな時にも、何が正しいことであって、神が喜ばれることであり、何が機会を有効活用することに当たるのか、考え続け、実行し続ける必要がある。そうする時に、まるで時を遡るようにして、見失ったと思ったものにも、追いつくことができるのだ。

あるいは、これは自分の力量が、果たさねばならない仕事に追いつかないと思われるときにも、同じように当てはまる。

たとえば、比較的最近、筆者は何週間にも渡り、山のような文書作成という仕事と取っ組み合った挙句、あまりにも疲れ切って、ついに自分が何を書いているのかさえ分からないほどの状態になった。自分の書いた文書を読み返すことはおろか、文字さえも見たくないという状態に陥ったのである。

筆者にとって、文章を書くことは、呼吸をするのと同じほど自然な作業で、何ら苦痛ではない。ところが、そんな筆者も、さすがに連日連夜、ぶっ通しで大量の文書作成を行った後では、消化不良状態に陥ったのであった。

それが一つだけのテーマに関わる論文などであったなら、まだ興味も力も尽きなかったかも知れないが、いくつもの仕事を同時に抱え、次々と取り組んでいるうちに、ついに文章を見るのも考えるのも嫌になったのである。もはや自分が何を書いているのか、自信もないが、推敲など考えたくもない、どんなにひどい誤字脱字が発見されようとも、知ったことではない、意味内容に錯綜が見られ、議論が紛糾したとしても、どうでもいい、というほどの心境に至ったのである。
 
しかし、何とかして最低限度のハードルだけはクリアするよう仕上げて手離したと思った直後、またもや頭痛をきたらせるような複雑な案件を、メールだけで解決しなければならなくなった。

その案件もまた、意味が伝わりさえすれば良いと気楽に構えていられるような内容ではなく、交渉事を有利に進めなければならない真剣勝負であった。格闘技にたとえれば、にらみ合っている対戦相手に、最初のわざをしかける瞬間だろうか。威勢のいい啖呵を切って、率先してイニシアティブを取り、相手を威嚇し、後退させねばならないような場面なのに、にらみを利かせるどころか、意味さえ通じるかどうか不明な文章を書き送るのが精一杯だったのである。

筆者としてはそのメールの内容は無念の出来栄えであり、まるで千鳥足で歩くような隙だらけと言ってよい主張だったにも関わらず、その案件は、こじれることもなく、誤解を生むこともなく、まさに筆者が願った通りの効果を生んで、決着が着いたのであった。これはとても不思議なことであった。

おそらく、消化不良状態で作成した文書にも、これと同じことが当てはまるはずだと考えられる。売り物の文学作品でない以上、もともと完璧が要求されているわけではないのだが、そのことをさて置いても、文書の価値は、文字だけにあるのではなく、内面に込められた力にあり、その力のもたらす効果は、文字を超えるのだと言えよう。

だから、その文書には、内面的な力の裏づけがある以上、たとえ未完成であったとしても、この先、十分な効果をもたらすはずだと筆者は確信している。(むろん、ここで言う内面的な力とは、人間の生まれながらの文才や、文章が呼び起こす情感や、あるいは法的根拠のことではなく、地上のすべての法体系を超えた、信仰による御言葉の正しい霊的秩序の裏づけのことである。)
  
私たちが、聖書の御言葉をすべての物事に対して徹底して貫き通す時、対立や紛争が広がる前に打ち砕かれて、早期に平和が到来するということもしばしば起きる。なぜなら、私たちは、信仰によって、暗闇の勢力がしかける罠を、彼らが実際に行動に移すよりも前に見抜くことができ、事前にこれを無効化できるからである。この問題についてはいつか別に書き記すことにしたい。
    
さらに、別な事例もある。以前の記事にも書いた通り、本年が始まってすぐ、筆者は危うく寝たきりになるかという危険にも遭遇したが、筆者が寝込みそうになっていた時、かねてより取引のあった人から、ある買い物をした。すると、今までにはなかなか望んでも手に入らなかった商品が、破格の値段で、山積みとなって提案されただけでなく、通常であれば、東京方面まで出向いて受け渡しをせねばならないところ、売主がとても熱心に購買を勧め、筆者の住んでいる近くまで受け渡しに来てくれたのである。時間も体力もない時であったから筆者は大助かりであったが、そんなことはこれまで一度も起きたことがなかった。

これらはみなすべて、キリスト者には「万策尽きた」という状態が来ない、ということを証明する事例である。キリスト者には、常に必要のすべてが信仰によって、恵みによって与えられ、「足りない」とか「及ばない」ということが決してない。だから、自分の今持っているものを見て、それがとても少ないからと言って、願いをあきらめてはならない。もしその願いが、御心に反しない、正しいものであるならば、それを達成する手段を、神は必ず与えて下さる。筆者の力が尽きても、それで事が終わりとならず、筆者が身動きの取れない時には、筆者の代わりに、他の人が動いてまで事が達成されるのである。

だが、このことは、決して、私たちが他人の目から見て、偉大な人間になることを意味しない。私たちの持っている「かめの粉」も「びんの油」も、決して溢れるほどにはならず、人の目から見て、我々の持っている知性や富や力は、ごくごく限られた貧弱なものに過ぎないかも知れない。

それにも関わらず、この貧弱な土の器を元手として、それを信仰によって何倍にも増強して、勝利をおさめることが実際に可能なのであり、私たちはそのように収穫を来たらせるような達成を続けて歩むべきなのである。

冒頭に挙げた、時をよく用いなさい、という御言葉は、以上に説明した通り、私たちが自分たちの生まれながらの微小な力を、御心を実現するために、信仰によって行使するとき、それが何倍にも増し加えられ、思いもかけない収穫を生むこと、そこで私たちは、たゆみなくそのような収穫を目指して進み続けなければいけないという意味を持つ。

多くの信者は、ただ何もしないで祈り、ぼんやりと空を見上げて待っていれば、千倍、百倍の祝福が空から降って来るなどと考えているようであるが、そのようなことは決して起きないと言えよう。

もしも心から祝福を得たいと願うならば、祝福を願うだけでなく、それを勝ち取らなければならない。それは目的地にたどり着きたいなら、たどり着きたいと願うだけでなく、実際に目的地に向かわなければならないのと同じである。

私たちは、永遠に至る収穫を得たいと願うならば、まず自分が持っているなけなしのものを、神のために捧げ、次に、御心を実現するために、具体的な行動に出なければならない。収穫はそれに続いてやって来る。肝心なことは、主にあって、真に正しい目的のために、御心を満足させると確信する目的のために、自分のなけなしのものを捧げることである。

そうすれば、自分の力がいかに限られたものであろうと、その限界に制約されることなく、いかなる行き詰まりにも達することなく、「勝ち得て余りがある」と言える人生を送ることができる。

だから、人の目に「足りない」とか「及ばない」ように見える有様に、決して心を留めてはいけない。決して、自分自身の限界に目を留めて、正しい願いを実行に移す前に諦めるべきではない。私たちが自分から諦めて退却することさえなければ、神は私たちが持っている取るに足りない力を使って、十分にご自分の栄光を表す大胆な御業をなして下さる。その結果、私たちは神を信じることが、決して失望に終わらないという御言葉の正しさを知り、主と共に喜びに溢れるだろう。そうして、この地上においても、永遠の領域においても、巨大な収穫を得るチャンスを逸さないで生きることは実際に可能なのである。

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「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。

「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
遅れられることはない。
わたしの正しい者は信仰によって生きる。
もしひるむようなことがあれば、
その者はわたしの心に適わない。」

しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。
(ヘブライ10:35-39)


不思議なことに、裁判は筆者の人生観を大きく変えるきっかけとなった。不合理を打ち破るための強力な現実的な武器があること、勝利をおさめるまで最後まで粘り強く戦い続けることの重要性を実地で学ばされたためである。

筆者は物心ついた時から、言葉の世界に生きており、ある時には創作を、ある時には論文を書いたが、それらはどれも、筆者に定められた真のフィールドとは多少、異なっていたようである。

筆者が知りたかったのは、真に衝撃力の伴う、実体の裏づけのある正しく真実な言葉であり、そうした言葉は、以上の分野を通しては、発見することができなかった。

筆者が、初めて真の衝撃力を持つ言葉が存在することを知ったのは、聖書の御言葉が、生きた霊的な力を持つ真理であることを知った時のことである。

真理とは、実体と一つになった、全くズレのない正しい言葉であると言えるかもしれない。聖書の創世記において、神が「光あれ」と命令されれば、光ができたとあるように、言葉は本来、実体と完全に一つになっている、実体を呼び覚ますための命令なのである。

むろん、そういう言葉を行使できるのは、創造者であり、絶対者である神だけであり、地上の人間の発する言葉は、どれもこれも多くの誤謬と虚偽を含み、実体をどんなにとらえようとしても、とらえることのできない不完全なものである。地上の言葉は幾重にも分裂しており、多くの混乱と意志不疎通を極め、力のない者の叫びは、かりみられることもない。

とはいえ、不完全な人間の言葉の世界にも、聖書の御言葉に似た、生きた衝撃力を伴う言葉の世界を垣間見ることのできる分野があった。裁判に直面した時、筆者は新たな言葉のフィールドを発見した。この分野には、筆者が経験してきたどの分野とも根本的に異なる、もっと大きな言葉の衝撃力が、まるで地下に埋蔵されたエネルギー源のように眠っていたのである。

判決文には、法的拘束力がある。むろん、判決文がすなわち実体なのではなく、判決は行使されることによって初めて実際となるわけであるが、しかしながら、これはただの文章ではなく、実体を呼び覚ますことのできる威力の伴う言葉であり、責任を負うべき者に対しては厳しい裁きの宣告である。

我々は判決文を手にすれば、実力行使を行うことが可能になる。あるいは他人の財産に対して差し押さえに及ぶ根拠さえも得られる。これは悪人どもが地上の寄る辺ない人々を追い詰めるために日夜、不当に行使している手段であるが、それを正しい人々が正しい目的のために行使することも、可能となるのである。

だが、それを勝ち取るためには、我々はまず自分自身の訴えを提起し、自らの論敵と激しい論戦を繰り広げ、その不当性をことごとく指摘し、これを打ち破らなければならない。

地上における裁判の模様を観察して、筆者がつくづく感じたことは、これは神の法廷に似ている、ということであった。

私たちキリスト教徒の立場から見れば、この世は、聖書の神が見えない裁き主となって支配する法廷のようなものである。私たちは、望むと望むまいと、この法廷に、悪魔と弁論を戦わせるために呼び出されている。

悪魔に対する裁きはすでにカルバリで決定している。従って、悪魔こそ、真に有罪を宣告された被告に他ならないのであるが、悪魔は「兄弟たちを告発する者」であるから、何とかしてその宣告を否定し、覆したいと願っているのであって、それゆえ、人間(我々―信者)を罪に定めようと、あることないこと、日夜、訴え、何とかして我々の権利を不当にかすめ取ろうとしている。

神は悪魔がご自分に敵対・挑戦していることを十分に知りながら、まずは、悪魔を論破する仕事を私たち人間に託されている。私たちの使命は、悪魔と暗闇の勢力から投げかけられる虚偽の訴えに対抗して、これに打ち勝つことである。

そこで、私たちは、キリストの十字架の贖いに固く立って、悪魔が人間を罪に定めようと執念深く訴えているその訴えを、何倍も上回る激しさで、御言葉という目に見えない揺るぎない法を武器に、悪魔を有罪として告発し、失われた正当な法的権利を取り戻す。

さて、「悪魔を糾弾する」というテーマについては、当ブログでは、何年も前から書いて来たが、実際に地上で法的権利を行使する方法を学ぶ時に、それに実践的な裏付けが与えられたように思う。

一般に、世の中の人々は、弁護士や裁判官といった類の人々を恐れ、法廷闘争などには決して関わりたくないと願って生きている。その思いの中には、厳格な法秩序そのものに対する畏怖の念もあれば、悪者たちが司法を悪用して、貧しい人々を踏みにじっていることへの漠然とした恐れも反映しているだろう。

だが、もしも悪者たちが、寄る辺のない貧しい人々の権利をかすめ取るために、司法を悪用しているならば、その逆に、寄る辺のない貧しい者たちが、これを自分を擁護する武器として利用することも可能なのであり、この世の法秩序は、本来、弱く貧しく寄る辺のない者たちの権利を守るために存在するのであって、正しい用途で利用するならば、真に法的保護を受けるべき人々の実に強力な武器、要塞となる。

そのことが分かったとき、それまでよそよそしい場所でしかなかった裁判所は、まるで筆者のための強力な砦のように感じられた。家と言っても良いほどである。裁判所の権威の源となる、弱い人々の権利を、強い者の横暴から守るために定められた法が、筆者には真に敬うべき価値のあるもの、真理である御言葉の絵図のようなものとして受け止められた。

筆者は小説を書く方法も、論文を書く方法も誰からも教わらなかったが、訴状を書く方法も、準備書面を書く方法も、誰からも教わっていない。そこで筆者は、教科書もなく、前任者もいない、誰からも教わることのない、生きた人間が身をもって開拓して行くしかない道を進んでいるわけであるが、それにも関わらず、この作業に取りかかったときに、自分に定められたフィールドにとても近い場所まで来たような気がした。自らの言葉を紡ぐことにより、この世を雲のように分厚く覆う不条理に、ごくわずかでも穴をあけ、それを打ち破るきっかけを作るところまで来たのだ。

大きな津波も、押し寄せるときには、まず波がしらが砕け散ることから始まる。筆者のしていることは、波がしらが砕けるときに、そこから飛び散る一滴の飛沫のような作業でしかない。しかし、それが単なる飛沫なのか、それとも、津波の始まりなのかは、今はまだ誰にも分からない。この先、筆者の提起しているような無数の訴えが積み重なって行った時、雲の破れ目から光が差し、見栄えの悪い「干潟」に光合成がもたらされ、世の中の仕組みが変わり、法改正が促されるようなことも起きうると確信する。
 
それが、人の目からは隠されたこの「干潟」に眠っている、目に見えない巨大な利益なのである。筆者はこれを掘り起こすための作業をしており、筆者のための、隠されたエネルギー資源もここに眠っていることと思う。なぜ悪者たちがこれほどまで司法にこだわるのか、彼らはそこから自分のために何の利益を引き出そうとしているのか、筆者はおぼろげながら、理解し始めたのである。

従って、今起きている事柄は、将来のより大きく困難な戦いの準備段階であるという気がしてならない。この戦いの方法に習熟することは、非常に重要なチャレンジであって、その先に初めて、ダビデがゴリアテを打ち破ったように、弱く貧しい取るに足りない人間が、自分よりもはるかに強力な者の支配を打ち破るようなことが、可能になるものと思う。

むろん、筆者は将来に何が待っているのかは知らないが、何かしら筆者の果たすべきより重要な仕事があり、そのための学習をさせられているという気がしてならない。
 
いずれにしても、自分がまずどんな権利を持っているのかをきちんと認識し、固くそこに立って、一歩も譲らず、自分で自分を弁護し、自らの権利を擁護し、守り抜き、あるいは取り返す戦いを経ることは、私たちに非常な勇気と力を与えてくれる。

私たちの弁護者はキリストであって、彼自身が、言うべき言葉を私たちに与えてくださる。だから、勇気を持って日々、前進し、最後まで命の確信に立ち続けるべきなのである。



「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:5,9)

新年から取り組んでいた課題は無事に果たされ、提出が終わった。今また新たな書面作りの作業に取り組んでいる。ブログを書いている時間がないのはそのせいであるが、この上なく充実した時間である。この書面作りこそ、筆者の真の仕事だという気がしてならない。

しかし、これまでを振り返ってみると、毎年2月は筆者にとって一年の中でも最も困難で憂鬱な時期であった。越冬のための力が、1月後半頃からじわじわと尽きて来て、2月に入る頃には、もうすすっかり活動エネルギーがなくなってしまっている。

そこで、2月から3月の頭に差しかかる頃が、一年の中で最も困難な時期となる。この頃になると、身も心も冬眠状態に入り、毎年、3月にたどり着く頃には、まるで発芽を待っている種のごとく、春を待つのがやっとという状態になる。

だが、今年は冬に重要な仕事が山積しており、ここからが正念場である。寒さになどやられているわけには行かない。

そういうわけで、今年は2月を元気に無事に乗り越えることを、昨年末からの課題にしていた。が、あいにく、精神論だけでは乗り越えられない。1月末になる頃には、早くも大きな壁にぶつかった。寒さの中で、分厚い書類を作り続けていたために、体にしわよせが来て、ここ何年間も発症してなかった持病が現れて来たのである。

とはいえ、持病と言っても、筆者には特に病気があるわけでもなく、ただ寒さが身に堪えると、体に負担がかかるだけだ。だが、これが本格的に発症すると、二週間ほどは寝たきりになりかねず、そんなわけには絶対に行かない。

ここはもう物理法則を打ち破る復活の命の力による上からのエネルギーによって強められるしかないと、筆者は祈った。筆者自身の人間的な限界では、とてもではないが、これほど大きな課題を、このような困難な時期に果たすことはできない。

そこで筆者は、もう何年間も、経験していないような上からの力を、主に乞うたのである。はっきりと声に出して主に助けを求めた。

キリストの復活の命の中を生きるとき、人は自分の生来の命の力ではとても成し遂げられないような大作業を軽々とこなすことが出来るようになる。山のように恐ろしい課題が目の前に山積しているときでも、未だかつて取り組んだことのない困難な事業に取りかかろうとしているときにも、しかも、誰一人その負担を理解する者もなく、共に負う者もないような時でも、圧倒的な平安が心を包み、勝利の歌が心の中で聞こえるのである。

それはまるで恵みの御座のそば近くで、命の川からじかに水を汲んで飲んでいるような具合である。

親猫が子猫の背中をくわえ、ひょいと上に持ち上げるように、あるいは、大きな鷲が、自分のヒナを足でがっしりと掴んで、高く天まで舞い上がるように、まるで自分のものではない大きな力で、何もかもを下へ下へと引き下げようとするこの世の重力に逆らって、上へ上へと高く持ち上げられるような具合なのだ。

この世の全ての重荷、自分自身の重さが、感じられなくなり、自力ですべてを成し遂げようとしていた時の苦しみに比べ、すべてのことが、軽やかに、鮮やかに、そして、喜びと平安の中で成し遂げられるようになる。

とはいえ、それは人の霊の内、心の内で起きることがらであって、外見的には何の変化も見られない。気温が変わるわけでもなければ、自分の周囲の環境が見違えるように変化するわけでもない。目の前に広がっている光景は相も変わらず、凡庸に見え、そして自分自身の生来の弱さも変わらず、物理的な世界は何も変わらない。

変わっているのは、その人の内側だけなのである。ところが、その内側から、この世の目に見える世界を覆すような圧倒的な力が外にあふれ出して来る。凡庸で何一つ心を揺さぶることなく、むしろ、厳しい限界を突きつけるだけの現実の只中に、すべてが完全であり、美しく、調和の取れて、制限されることのない、もう一つの「現実」が、上からかぶせられるがごとくに、二重に重なるのである。

その結果、この滅びゆく世界を眺めていてさえ、そこにまぶしく、輝くような真新しい喜びに満ちた「現実」が、満ち溢れていることが見えて来るのである。

これは本当に不思議なことである。滅びゆくこの世の秩序体系の上に、永遠に滅びることのないもう一つの天的な法則性が「上から着せられる」のである。
 
たとえは悪いかも知れないが、それは事故を起こして放射能漏れを起こす原子力発電所に、これ以上、世界に害をまき散らさないようにと、石棺をかぶせる作業にも似ているかも知れない。石棺は必ず劣化して、いつしか修復が必要になるが、天的な秩序は、この世のすべてを覆い、劣化することなく、決してこの世の物理法則によって触れられることがない。

しかも、石棺は、何らその下に覆われているものを修復することができず、生かす力もなく、ただ滅びゆく物質の醜さ、恐ろしさ、有害性を束の間、覆い隠すだけであるが、キリストの復活の命に基づく天的秩序は、その中に覆われ、くるまれた滅びゆくものに、朽ちない新たなエネルギーを供給し、全く新たに完全に生かすことができる。滅びゆくものの醜さや害悪を覆い隠し、これを殺し、汚れのない新しい命により生かし、完成されて調和の取れた美へと変えて行くのである。

筆者は、キリストの復活の命を通して、そのような新たな力が、自分自身だけでなく、筆者を通して、周りの環境にまで及んでいることが分かった。二つの現実が筆者の前に見える。一つは、今まで通りの不完全な朽ちゆく世界の秩序であり、その上に、それと非常によく似ているが、贖われて完成された、喜びに満ちたもう一つの秩序が重なっている。まことに、被造物が贖われるときを待ち望んで呻いているというのは、こういうことかも知れない。
 
私たちは贖われた世界をまだ肉眼で見ていないにも関わらず、その秩序が「すでに到来している」ことを霊の内で知っている。

このように、キリストによって新たに生かされた人は、その内側に、はかりしれない神の永遠の命を持っており、そこから、この世のすべての物理法則の限界、人間自身の有限なる命の限界を打ち破って、この世の被造物の限界を軽やかに乗り越えながら、すべてを新たに生かし、生み出す力が、外へ流れ出て来る。

これは無から有を生み出すことのできるエネルギーである。だが、この新しい命のエネルギーは、決してその命を持っている人を超人にすることはないし、そのエネルギーによって周囲を圧倒することもない。

これはとても自然でさりげない隠された命で、主を喜ぶことと一つにつながっている。この命は、十字架上ですべてを成し遂げて下さったキリストへの賛美と一つにつながっている。パウロとシラスが投獄されていた時に、獄屋を震わせたあの力は、主がカルバリで取られた勝利の命に基づいている。

しかし、その力は、決して見る者を圧倒し、なぎ倒すような非人間的なエネルギーではない。その力は、私たちの弱く脆い天然の命や、限界ある自己存在を圧倒したり、脅かすことがなく、これと優しく同居し、これを包むことができる。

この新たな命は、御霊の油となって、私たちのひび割れて劣化して隙間だらけとなった自己存在の只中から、芳しい香油のように、外へ外へと溢れ流れ出て来るのである。

筆者はこの命のエネルギーを何にたとえるべきか分からないが、その力が行使されるには、私たちの心からの神への賛美が必要であることを知っている。この力が内側からあふれ出て来るためには、私たちの心が、神と争いがなく、透明で、真っすぐである必要がある。そのような心の状態をキープする時、まさに主は敵前で私たちのために宴をもうけ、私たちの頭に油を注いで下さるという、あの詩編の御言葉が成就するのである。

また、その油は、私たちの心からの神への愛と賛美に基づいている。それはすべての逆らうものを包み込んで行くような愛である。洪水のような愛と言っても良いだろうか。洪水は常に恐ろしいものであるが、愛が洪水のように流れるならば、それは人間にとって決して恐ろしいものとはならないはずである。

私たちがキリストの復活の命の中を生き生きと歩むとき、目に見えない洪水が起きる。世の中は相も変わらず、私たちの限界も相も変わらないが、その限界の只中から、新しい生き生きとした命のエネルギーが、目に見えない洪水のように外に流れ、溢れ出し、すべてのものを新たに生かし、私たちの魂は喜びに満ちる。

私たちの心は、まるで雲間が晴れて、遮るものがなくなった青空のように、神との間に妨げがなく、「すべては終わった」という勝利に立つことができる。

その時、すべてのこの世の喧騒は、はるか足の下にある。問題はなくなっていない。未だ目の前に山積している。それにも関わらず、すべては終わった、勝利は取られた、という確信が心の中に揺るぎなくあり、私たちは大胆に勝利の歌を歌うことができるようになる。

これまで筆者は、様々な個人的問題に直面した際に、一つ一つ、信仰によって勝利をおさめる術を学んだ。だんだんその戦いのスケールが大きくなっているのを感じる。現在、筆者が直面する課題は、もはや筆者個人の利益を回復するためだけにあるものではなくなり、個人を超えたもっと大きなスケールで、この世に対する衝撃力をもたらすための戦いへと変わりつつあるのだ。

これまでに筆者は、自分個人のために、たくさん戦って来た。だが、その戦いが一定量に達したとき、これまで積み上げて来た経験を、もはや自分個人のためにではなく、筆者の知らない大勢の人々のために、社会のために、あるいは教会のために、あるいは神を知らない人々のために、筆者とは縁もゆかりもないように見える人々のために、用いなければならないと考えるようになった。

とはいえ、このことは決して筆者が何かしらの社会事業に乗り出すことを意味しない。新たに慈善団体を立ち上げたり、社会改革の旗を掲げて、組織を作ったり、人を集めることも意味しない。そのようなことではなく、筆者の生き様そのもの、存在そのものが、もはや個人のレベルを離れて、筆者が見たこともなく、知ってもいない大勢の人たちに、そして筆者の知らない未来にまで影響を及ぼすために、捧げられたと分かるのである。

もちろん、筆者は神に仕えて生きることを第一としているため、社会のために身を捧げるなどと言うつもりはないが、それにしても、神への愛の中に、すべての被造物への愛が内包されている。神を第一として生きることは、神が造られた被造物を愛することと決して矛盾しない。そこで、この道を行くならば、どこかの時点で、人は必ず、自分自身のために生きることを離れ、自分の存在を、神に捧げるのみならず、人々のためにも喜んで捧げられるようになるだろう。
 
繰り返すが、そのことは、決してその信者が、この世に迎合し、人間の欲望の奴隷として生きることを意味しない。人々に仕えると言っても、それはあくまで十字架の死を通してである。あくまでこの世に対してはりつけにされて死んでいる者の立場からである。

だから、筆者は多分、自分のしていることが、この世の誰にどのように利益をもたらすのか、きっと最後までわからずじまいであろうと思う。筆者が成し遂げたことが、筆者が生きているうちに、筆者自身の栄光となって帰って来ることは、まずないであろうと思う。それで全く構わないし、それで良いのだ。
 
この世の評価などとは全く関係なく、筆者には、神との間で争いがなく、愛を持って、互いに頷き合うことのできる関係があることの方が、はるかに重要である。神に受け入れられているという喜びに満ちた確信、そして、筆者自身も、自分を贖って下さった神に従いたいという願いを持って、互いに承認し合う関係があることが、何より重要である。

神との間に何一つ隔てとなるものがなく、筆者のために必要なことをすべて神がキリストの十字架の上ですでに成し遂げて下さっという、この喜びに満ちた勝利の確信を、常に心に保ち続けることこそ、信仰生活を最後まで勇敢に力強く歩み通すための最たる秘訣である。

私たちは、この限界ある世に、信仰によって、神の完全を引き下ろすために生きている。神の国は、私たちの存在を通して、すでにこの世に来ている。神はご自分が完全であられるように、ご自分の子供たちにも、完全であって欲しいと願っておられる。そのことを、私たちは改めて思い出す必要がある。

そこで、私たちは大胆に御名によって権威を行使して、神が我々のために用意して下さった完全を地に引き下ろすべきである。その時、すべての痛んだ箇所、ひび割れた箇所、すべての隙間、弱さに、御霊の油が染み透り、ひび割れを覆い尽くして流れるであろう。

神の完全が地に現されるために必要なすべてを、主は予め天に備えて下さっている。主の御名は誉むべきかな。 
 
「信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの者は加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカ12:28‐34)



人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は、自分の身に裁きを招くでしょう。

実際、支配者は、善を行う者にはそうでないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。

しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。

だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。

すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(ローマ13:1-7)

改めて以上の御言葉が心に思い起こされる。

いくつか前の記事に、私たちは裁判官も含め、地上で立てられたすべての権威に服すべきということについて書いた。そうしないことの恐ろしさがどんなものであるかを、筆者はすでに結審した裁判の過程で十分に思い知らされたと言える。
 
今回、被告となった人々は、すでに結審したその訴訟のみならず、他の裁判においても、幾度も裁判所の判断を信頼しない姿勢を示して来た。彼らは自分たちにとって不利な判決が出ると、早速、「裁判所はこの世の機関であって、信仰の世界には疎いから・・・」という言い訳がましい弁明を持ち出し、自分たちにとって不利な判決を尊重しない姿勢を示して来たのである。

そのように、ご都合主義的に地上の裁判所の権威を利用して来た被告らの一人は、筆者の提起した裁判では、ついに裁判所の決定を「不法行為」であるとまで言い立てた。

詳細はここには記さない(それを記すのは、すべてが終結してからのことになろう)が、筆者が行ったある申請が裁判所によって許可されたことが許せないがために、被告はついに裁判所が「不法行為」を働いているとまで言い始め、裁判官の権威をさえ否定するような主張に及んだのである。

その主張を書面で読んだとき、筆者は、ついに来るべき瞬間が来たなと感じた。彼らはこれまでにも自分たちにとって不利な決定は何であれ、認めない態度を取って来たが、今となっては、ただこれまでのように、教会の権威に逆らうだけでなく、地上の権威にも逆らい、ついにおよそ自分の上に立てられた権威という権威をすべて否定して、自分はどんな裁きにも服さず、自ら裁き主となって、神に等しい権威者になろうとしていると筆者は感じ、そのような発言を非常に恐ろしいものであると感じたのである。

そして、その恐るべき発言を聞いたからこそ、筆者は、決してその姿勢にならってはならず、そのために、我々は信仰を持たない人々の決定であっても、自分の上に立てられた権威の前に、己を低くして、徹底的に従順な姿勢を貫かなければならないと固く心に留め、そうすることを決意したのである。
 
我々の上に立てられた信仰を持たない権威者は、彼らも人間であるから、しばしば、弱さも見せるであろうし、判断を誤りかけることさえあるかも知れない。しかし、もし我々が誰かを自分の上に立てられた権威者として選んだのであれば、私たちはたとえ彼らの弱さや限界を知ったとしても、それにつけこんだり、利用したりすることなく、彼らの人格を理解し、受け入れた上で、彼らが我々との関わりの中で、共に正しい判断へと至り着くことができるよう、最大限の努力を払わなければならない。私たちはそのために、仕える人々とならなければならないのである。

筆者はちょうど裁判が結審した日に、裁判官のみならず、自分の職場の上司に従うのかどうかも試されていた。その日、出勤するのか、それとも欠勤するのか、という選択が、死活的重要性を帯びる問題となったのである。

職場にはそれぞれ異なるルールがあり、自由に欠勤できる職場もあれば、欠勤が非常に厳しくマイナス評価される職場もある。その職場は、早退の許可を得ることさえ容易ではなかった。
 
筆者は、期日よりも前に早退の許可を願い出ていたものの、期日当日の朝になってから、審理の時間に遅れてはならないことを考え、いっそ大事を取るため、何か理由をつけて欠勤した方が良いのではないかと思いめぐらした。しかし、仕事も重要な時期であったので、やはり申告通り、勤務を早引けして審理に駆けつけることにした。

そして、それが正解だったのである。その日、出勤してから、改めて早退の旨を上司に告げると、不思議なことに、筆者が何も願い出ないうちに、上司から前もって申告していた時間よりも30分早く前に早退して良いと許可が出た。そのおかげで、筆者がいつもと異なる駅で降りたために、出口を間違えて道に迷ったにも関わらず、予定時刻に全く遅れることもなく、余裕を持って期日に到着することができたのである。

しかも、その日、裁判所の周辺では、パトカーが不法駐車を取り締まっていた。それは筆者が初めて見る光景で、これまで裁判所付近の道路には、広い駐車場もないため、常に色々な(業者も含め)車が止まっていた。そして、取り締まりなど一向に行われている気配もなかった

それなのに、その日には、パトカーが来てラウドスピーカーで停車中の車に向かって立ち退きを呼びかけていた。明らかに、その後、立ち退かない車には罰金が科されていたか、強制的に撤去・移動させられていたに違いない。従って、もしもこの日、筆者が職場を欠勤し、車で裁判所に向かうようなことがあれば、その後、何が起きていたかは保証の限りではない。

そうした出来事や、すでに書いた通りの結審の運びを見て、筆者は、この日、地上で立てられた権威者に従うかどうか、筆者の内心が試されていたのだと理解したのであった。

それは天から筆者に下されたテストのようなものであった。もしも筆者が、突発的な欠勤の一日くらい大したことはないと考えたり、もしくは、職場の上司であれ、裁判官であれ、あるいは警官であれ、誰か一人に対してでも序列および信頼関係を崩すような行為に出ていたならば、それだけでこの日受けられた一切の輝かしい勝利の結末を失わせるに十分な効果を発揮したであろうと疑わない。

  繰り返すが、我々の上に立てられたさまざまな身近な権威者には、人間としての弱さや限界も存在するかも知れない。たとえば、職場にたくさんの上司がいたとして、その全員が、私たちの気に入るわけではないであろうし、過度に厳しいルールが課されているかのように感じられ、改善が必要と思うこともあるかも知れない。あまりにもがんじがらめの自由のない規則に対しては、私たちの心は反発を覚えるであろう。

だが、そういった問題と、我々が権威そのものに従うかどうかという問題は別問題なのである。ルールは運用が変わったり、改善がなされたりして、変化して行く可能性がある。上司の顔ぶれも変わるであろう。

だが、現時点で定められているルールが不完全なものであったとしても、私たちはそのことを口実に、その背後に存在する権威を認めないことはできない。同じように、上司の人間性に限界が見えたとしても、私たちはそれを口実にして、その人に与えられた権威そのものを否定するという行動に出てはいけないのである。

言い換えるならば、神が立てられた権威はすべて、その権威者の人間性と、実に不思議なユニークな形で一つに結びついている。人間であるからこそ、長所もあれば、短所も存在するが、生きた人格を持った人間が、権威を行使し、決定を下すからこそ、その権威にはかけがえのない価値があると言える。

私たちは、権威者はいくらでも交替が可能であるように思っているかも知れない。首相も交替すれば、大臣も交替し、政治家も変わり、役所の職員などは、すべて交替可能な要員に見えるであろう。機械でも代行できるような仕事だと思う事さえあるかも知れない。誰が決定しても、同じ結果が出ると思うこともあるだろう。

しかし、実際にはそうではないのだ。私たちがさざまなところで出会う権威者は、実は一人一人が、人格を持ったユニークな存在であり、彼らの権威の行使は、彼らの人格や、彼らの人間的な判断と一つに結びついており、それは決して他の人々に真似ができるものではないし、二度と繰り返せるものではない。しかも、それは我々との関係性の中で行使される権威なのである。

従って、彼らが行っていることは、単なる職務上の処理や、偶然に過ぎない出来事のように見えたとしても、実際には、その一つ一つが、彼らの人間性の発揮であり、我々との人間関係なのであり、そうであるがゆえに、それは非常にユニークでチャーミングな権威の行使であると言える。しかも、それには我々の側からの関与も求められる。

そこで、どんなに些細な決定であれ、それは人間の自由意志の行使、また自己決定・自己表現の一つの形態であり、人間社会の方向性を決定づける上で、見逃せない意味や効果を持つものなのである。

そのため、我々はただ単に、権威者が自分にとって有利な決定を下せるからという理由で、彼らが持っている権威だけを恐れ、尊重するわけではなく、あるいは、自分に有利な決定が欲しいから、面従腹背の態度を取り、うわべだけ従うわけでもなく、その権威者の人間性にも注意を払い、彼らを全人格的な存在として敬い、認める必要がある。

それは、我々がちょうど神に仕え、神を愛するように、自分の上に立てられた地上の権威者たち、上司たちを敬い、仕えるべきことを意味する。ただし、これは私たちが、人間に過ぎない者を、まるで神のように思って絶対服従するとか、一切の不服を申し立ててはいけないという意味ではない。

私たちは地上の人間に対していかなる異議申し立てもしてはならないわけではない。変えるべきルールというものも存在する。しかし、権威者に対する異議申し立てを行う上で、重要なのは、上司への異議申し立ては、まず部下の側から上司への心からの敬意と従順と信頼の裏づけがあって、初めて効力を帯びるということである。信頼関係が構築されていないのに不服を申し立てることは、序列の転覆、人間関係の破壊につながり、本質的には反逆という要素をはらむ行為である。

そこで、私たちは、自分の上に立てられた権威者の人間的な欠点や弱さや限界をも理解した上で、彼らに心からの従順を示す必要がある。彼らに言いたいことがあるならば、信頼関係が損なわれない方法で、彼らの人格を尊重しつつ、助言や忠告を上に上げる必要がある。そのような配慮が必要なのは、私たち自身も、彼らと同じように、欠点や弱さや限界を持った存在であり、彼らの権威によって、尊重され、守られるべき立場にあるのに、その保護を失わないためである。

このような話を持ち出したのは、筆者が審理を抱えていた日に、単に一日、仕事を欠勤するかどうかという問題でさえ、心の深い所では、筆者の上司に対する態度、職場全体に対する態度、自分の上に立てられた権威者に対する態度を如実に示していたと思うためである。

その日から今日に至るまで、テストはずっと続いている。そのテストとは、筆者が自己の力を誇るためのものではなく、むしろ、自己を手放すことを求められるテストであり、自分の都合、自分の事情、自分の思い、自分の手柄を失い、自らの栄光を手放してでも、自らの上に立てられた権威に従えるかどうかを試すテストである。

私たちは一人一人が不完全さを持った人間であり、自分の事情、自分の都合、自分の利益を最優先したいと考える思いが出て来る時がある。そして、上に立てられた権威者に向かっても、まずは自分の事情を訴え、それを理解してもらうのが当然、という態度を取ろうとする。

だが、権威者は部下の事情を真っ先に考えて行動すべき立場にはない。そして上司と部下は、互いの弱さや欠点をも知りながら、共に協力して正しい決定を下して行かねばならない関係にある。そこで、もし私たちが自分の上司に対して、もっと我々のために自由を与えて欲しい、理解や配慮を示してほしいと願うならば、まずは部下としての私たちの従順が、正真正銘、心から真実なものであることが証明されねばならない。

そうすれば、その従順は、信仰を持たない上司にも、大きな影響をもたらし、彼らの心を動かす力となり、彼らが私たちを信用して、私たちの言い分を耳を傾け、正しく権威を行使して、私たちにより多くの自由を与え、さらに世の中をあるべき正しい方向へ向かわせる決定を下すきっかけとなりうるだろう。

だが、それとは逆に、もしも私たちが上司たちの人間的な限界、弱さ、欠点といったものにばかり目を向け、それを口実にして、彼らの人格だけでなく、彼らの権威までも否定し始めるならば、結果として、正しい決定が下される大きなチャンスが失われてしまうだけでなく、その権威者と私たちとは信頼関係を失って、互いが疑心暗鬼に陥り、あるいは離反し、ついに双方ともに暗闇の勢力に引き渡されるということが起きうる。

その結果、上司たちは部下を憎むようになり、部下に対して悪を行使するために、自らの権威を濫用するようになり、部下の側でもいつまでも上司に対する不服だけを心に抱え、いつか秩序を転覆してやるなどとクーデタの機会を伺うようなことが起きかねないのである。

しかし、本来、上司と部下はそのような存在ではない。それはキリストと花嫁なる教会がそうであるように、協力して正しい行いを成し遂げるべき関係である。

今はあまり時間がないので、この程度にとどめるが、これは非常に奥が深く、かつ重要なテーマなので、この先も、何度か繰り返すことになるのではないかと思う。

結論をもう一度述べる。私たちはクリスチャンとして、地上で立てられた権威に対して、従う姿勢を見せるべきである。それは主に従うように、上司に従うことを意味する。改善すべきところは提案し、不正には決して加担しない態度を取りながらも、私たちは上司に何か提案する時にも、権威そのものを決して否定しない態度を取るべきである。そして、自分の上に立てられた権威者も、弱い人間であって限界があり、いつ誤った判断に陥るか分からない恐れがあることを十分に理解して、彼らの弱さを助長したり、つけこむようなことを決してせずに、むしろ、彼らがその弱さを乗り越えて、真にあるべきふさわしい形で己が権威を行使し、大勢の人々に正しい影響を及ぼすことができるよう、絶えず祈り、願い続け、それを助ける姿勢を持つべきなのである。

私たちには、自分の上に立てられた権威者のためにとりなし続けることが必要である。だが、そのためには、私たちが口先だけで、自分以外の他人の振る舞いだけを正そうと、もっともらしい言葉を並べることが必要なのではなく、何よりもまず、私たち自身が、日々自分の十字架を取って、主の死を共に身に帯びることが必要である。我々自身に、主と共なる十字架が適用されていないのに、我々が何千、何万語を費やして正しい主張を語ってみたところで、そのすべての言葉はむなしい。私たちがどれほど神に従順であるかという度合いが、地上の権威者への従順の度合いをも決定するのである。



「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話、福音の神秘を大胆に示すことができるようん、わたしのためにも祈ってください。

わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェソ6:10-20)
 
オリーブ園の直近のオースチンスパークスの記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (11)」も依然としてタイムリーな内容である。

この論説は、今日の弱体化した教会(エクレシア)が主の霊によって力づけられ、上から生まれた人々によって構成され、霊的な戦いに対して十分に備えられ、訓練された戦闘員となる必要性を訴えている。

前回の記事にも書いた通り、今日、クリスチャンと呼ばれている民の多くは、戦争が勃発しているのに、そのことを知らされずに非武装のまま土地に残された民間人のようである(まして非クリスチャンは戦いがあることなど全く知らされていない最も無防備な人々である)。

しかし、彼らが知らなくとも、戦いの火蓋はすでに切って落とされており、暗闇の勢力の欺きの活動が存在し、敵の襲来が迫っているのは事実であるから、彼らがずっと無防備のままであれば、やがて捕えられ、捕虜として引いていかれ、緩慢な死に追いやられるか、たちまち暴虐に見舞われるか、いずれにしても、悲劇が待ち構えているだけである。

そのような結果に至らないために、我々は戦って勝利をおさめなければならない。だが、今日、戦いがあることを知って、神の武具で武装して、きちんと戦闘に備えているクリスチャンはほとんど見当たらない嘆かわしい現状がある。

そこで、一部、ごくわずかに訓練を受け、戦いに備えて武装することを知っている信者が、無防備な民のために見張り人となり、防御兵の役目を果たさなければならない。

バビロンの倒壊はすでに始まっているのであり、私たちはその滅びに巻き込まれないよう、自分だけでなく、多くの人々をも避難させる役目を担っている。サムソンは最期の力を振り絞ってペリシテ人の神殿を倒壊させ、自分もその下敷きとなって死んだが、今日、私たちはキリストの十字架の死と復活を帯びているから、自分自身と人々を倒壊する火宅から生きて助け出す力を持っている(ただし霊的には絶えず死をくぐらなければならない)。

私たちが激しい戦いの中で、自己の安寧を最優先して、さっさとあきらめて退却するのか、それとも最後までその戦いの中に踏みとどまって、勝利を確信し、人々を説得して避難させ、彼らが川を渡り終わるまで、そこで最後まで契約の箱を抱えあげて立ち尽くせるかどうかで、多くの人々の命運までが決まってしまう。

エクソダスは一人だけで成し遂げられるものではなく、多くの人々がそれに続くのである。彼らが紅海を渡り終えるまで、海を切り開き、道を支えている誰かが必要である。

筆者は長い間、そのことを知らず、筆者自身も、自分が戦闘員として立たされていることに気づいていない一人であったが、それでも神の子供の一人として、さまざまな訓練を受けることになり、それが戦闘員とされるための訓練であることが、徐々に分かって来た。そうこうしているうちに、ついには、自分の生まれながらの弱さや限界、あるいは知恵の不足をすべて補って、自分のものではない、神の上からの力が私たちの内に働き、どんな激しい戦いをも最後までくぐり抜けることを十分に可能にしてくれるため、私たちはそれを最後まで信じて立ちおおせなければならないことが分かったのである。
  
オースチンスパークスが以下で「非戦闘員」と呼んでいる人々は、ほとんどが、いわゆる既存のキリスト教の組織や団体の枠組みの中にいる人々である。それらの団体の構成員は、血縁や、友人関係や、その他の地上の生まれながらの魂の情愛による絆や、縁故によってほとんど占められており、神の命によって生まれたのでない大勢の人々、また、地上的な人間関係の絆でがんじがらめとされている。その団体は全く霊的な戦いがあることも知らず、その戦いに巻き込まれないために、垣を巡らし、城壁を作り、その中に閉じこもってしまった人々である。

しかし、聖書におけるエクレシアはそのようなものではなく、神の新しい命によって上から生まれ、キリストの頭首権に服する人々によって構成される目に見えない共同体である。そして、私たちは自己の安全のために、自分の団体の中に閉じこもるのでなく、絶えず全世界に出て行って、福音を宣べ伝える使命を帯びている。

自覚があろうとなかろうと、一人一人のクリスチャンは、常に新しい霊的領土を獲得するための戦いの中に置かれているのであり、私たちの信仰的態度は、私たちが身を置いている見えない領域に、誰の支配が及ぶのか、すなわち、キリストの主権が打ち立てられるのか、それとも、それに反する者の主権が打ち立てられるのか、激しい支配権の争奪戦の行方を決定する。

私たちはそこで暗闇の勢力の支配を駆逐し、彼らが恐怖によって人々を従わせようとするわざを打ち壊して、そこに自分たちが掲げているキリストの御名の旗を打ち立てて、キリストの主権を確立せねばならず、その作業によって、私たち自身のみならず、大勢の人々が、暗闇の支配下から解放され、まことの命なる方の支配へと移し出されるのである。

しかし、それは決して、私たちがこの世の力によって支配権を奪還するというクーデターによって成し遂げられるものではない。むしろ、私たちが最も弱くされて主と共に十字架の死を通ることによって、そこに逆説的に復活の命が働くという方法でなくてはならない。

その時、私たちの弱さの中に、私たちのものではないはかりしれない神の力が働き、私たちが霊的に経由した死と復活が、すさまじいまでの衝撃力となって、これまで暗闇の勢力の欺きにとらえられて盲目とされていた多くの人々にも波及し、人々は自ら事の本質を悟り、神に直接、連なって、愛する御子の支配下にかくまわれ、そこで御名のために命をかけて戦うことのできる戦闘員へと変えられて行くのである。

次の御言葉は、今日の荒廃した状態の教会にも、当てはまるものであり、終末の時代のことだけを指して言われたわけではないと筆者は信じている。

シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。
 

打ち場は穀物で満ち、石がめは新しい酒と油とであふれる。 わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年をわたしはあなたがたに償う。

あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされたあなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。

わが民は永遠にはずかしめられることがない。 あなたがたはイスラエルのうちにわたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る。わが民は永遠にはずかしめられることがない。


その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。

その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。 その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。 その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。
 
だが、上記の御言葉を、聖霊を受ける必要性だけをことさらに強調する運動と混同することはできない。私たちの信仰生活の中心に位置するものは、いつでもキリストの十字架の死と復活でなくてはならない。十字架を中心に据えず、自分への祝福や、霊的現象ばかりを追い求めれば、必ずや別な目的へと逸れて行くことであろう。

必要なのは、万民祭司の時代にふさわしく、私たち一人一人の信者がキリストに直接、連なり、神の霊によって上から生まれ、直接、御霊から教わる民となることである。そして、日々、自分の十字架を取って主に従い、子としての訓練を受け入れることである。
  
私たちは地上的な団体に所属して形骸化した信仰生活を送ることを神に従うことと同一視するのではなく、上から生まれ、神の教会の中に、直接、上から置かれ、そこで使命を与えられ、果たすことの意味を考えなければならない。

戸口で自己を焼き尽くされた上で、目に見えない共同体であるエクレシアの中に入れられ、そこで神が望んでおられる役割を果たすことの意義を考えなければならない。エクレシアはただ単にキリストが再び来られるのを待ち望んでいる聖なる花嫁であるだけでなく、頭首なるキリストの意を受けて、それを地に実現するための神の最強の軍隊でもある。神の多種多様な知恵が、教会を通して、天上の諸々の主権や権威に対して知らしめられ、教会を通じて、サタンのわざが打ち壊され、サタンが天から投げ落とされ、神に栄光が帰されるのである。

エクレシアには主の安息が満ちていると同時に、これは花婿の栄光のために戦う花嫁でもある。そして、そのような役割を確実に教会が果たせるようになるためには、幾度も述べた通り、一人一人の構成員が真に主と共なる十字架の死と復活を経て、神の命によって上から生まれ、エクレシアの中に上から入れられ、それぞれの場所に置かれる必要がある。そうなって初めて、それぞれに置かれた場所で、自分にどのような召しが与えられているのか、各自が理解して、これを果たせるようになるのである。

私たちは、主の御名によって呼ばれる軍隊の一人として、目に見えない霊的なミッションを担う戦闘員として、自分に与えられている召しが、確かに自分自身の思いから来たものではなく、神から来たものであることを確信し、どんな犠牲が伴っても、それを最後まで貫徹して勝利をおさめ、成果を勝ち取るまであきらめないという強い願いを持つ必要がある。

そのような召しを与えて下さることは、ただ神だけに可能であるが、私たちクリスチャンは一人一人が本来、みなそのように神の武具で武装し、戦いに熟練し、霊的に訓練された戦闘員となる必要があり、エクレシアはそのように整えられた戦闘員によって神の栄光のために大胆なわざがなされるべき場所なのである。
 
以下、オースチンスパークスの論説から。

  最も霊的な事柄に関しても、多くの非戦闘員がいるおそれがあります。彼らがその中にいるのは、そこから出るのを恐れているからです。彼らは撤退しようとしません。それは自分に何が起きるのかを恐れているため、あるいはその中に友人がいるため、あるいはそれに個人的関心を持っているため、あるいはそれに全く同意しているためです。

主に私たちの心を探ってもらって次のように自問しましょう。「なぜ私はこの中にいるのでしょう?私がその中にいるのは、上からその中に入ったからでしょうか?神が御自身に関する強力な経験に基づいて私をその中に置かれたので、それ以外どうしようもないためでしょうか?それは辞めたり、引き下がったり、他の何かに行ったりできるものではなく、私の命なのです」。

神がそこに一つの民を獲得される時、彼の主権が宣言される扉が開かれます。とても多くの人々は隅にいて傍観しています。それが正しいのかどうかまったく確信がなく、それは完全に安全なのかどうか疑問に思っています。そして、状況を分析しています。これは彼らがその中にない証拠です。主の主権は、その中におらず、そしてその中に上から入ったことのない人々のせいで、停滞させられるおそれがあります。

 私たちは神に属する事柄の中に上から入らなければなりません。協会や運動に加わるようにキリスト教に加わることはできません。そのように神の事柄の中に入ることはできません。「上から入る」という言葉で私が何を言わんとしているのか、あなたは疑問に思っておられるでしょう。私が言わんとしているのは、あなたは死んで葬られ、今や天の側から中に入ったということです。それは開かれた天を通ってであり、あなた自身の心の中にイエス・キリストが啓示されるという方法によってです。これはあなたにとって地的事柄では全くありません。その起源は天にあります。





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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