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「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。」

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

8月15日を境に秋の気配が漂うようになった。夏が去ってしまうことが名残惜しい。

今年の前半はほとんど審理の準備に費やされたが、筆者の人生はそれによって停滞することなく、実人生においても、これまでにない大きな前進と収穫があった。

裁判で学んだ様々な有益な教訓を活かして、人々を助けるために、社会との新たな接点や、新たなミッションが与えられたからである。

一審判決が言い渡された時には、地球上にたった一人の裁判官以外には、筆者の主張を認める人もないかのように見えたが、たった一人であっても、信頼と協力を打ち立てることのできる人間が現れたことの意味は大きく、これを突破口のようにして、その後、援護者、協力者が増えつつある。

今や様々な人々と円滑な協力関係を築きながら、事件の解決へ向けて、物事を進められるようになった。気軽な世間話のように、この事件の行く末に関して論じ合うことのできる日も、そう遠くはないであろう。

それは世の人たちであって、信仰者ではないが、筆者はこの地にやって来た時から、ここを生ける水の川々の流れ出す場所にしたいという願いを持っていたので、人々との間で、真実で偽りのない信頼関係、協力関係が築かれつつある有様を見ると、その願いが、少しずつであるが、実現していると思わずにいられない。

紛争は、筆者を絶望に追いやることなく、かえって、一見、厭わしく、みすぼらしく、無益のように見えるこの「干潟」を中心に、そこから流れ出す命の泉が、確実に周囲を潤し、人々の心の思いや、関係を変えて行くようになった。紛争を機に、静かに、そして人目にはつかない形で、確実に社会のあり方が変わって行くのである。

控訴審が開かれるのは、秋になろうが、昨年に比べ、筆者の荷は軽い。相手方が遅れに遅れて出した書面も非常に軽いが、それだけではなく、今や筆者は、様々な重荷を自分の手から離し、その本来の持ち主にお返しする方法を学び始めた。

重荷を減らすためには、これを本当の持ち主に返還するのが一番である。主イエスは、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われたのであるから、負うことが困難なほどに重い荷がやって来れば、それは主から来たものではないものとして、持ち主をよく調べて、真の受取人にお返しすべきである。

控訴審の荷が軽いのは、主がすべてを筆者に負えるよう采配して下さっていることはもちろんのこと、判決が守りの盾となっているからでもある。

一般に、法律家でもない素人が、新たな証拠もなく、判決を覆すのは、まず無理だと言って差し支えない。だから、判決を不服として控訴する者は、判決と戦っているのであって、事件の当事者と直接、戦っているわけではない。

その上、筆者は、キリスト者を訴えられる者は誰もいないという聖書の御言葉を繰り返し引用しているのであるから、そのバリアを破ろうとする不遜な試みは、聖書の御言葉そのものに逆らい、これを破ろうとすることを意味するわけで、神を相手に戦いを挑んでいるようなものである。

そういう試みの結果、生じる途方もない重荷は、その本人のみが負えば良いものであって、他の人たちには関係がない。アナニヤとサッピラが、聖霊が定めた境界を欺きによって乗り越えようとして、エクレシアの戸口で神に討たれて死んだように、不遜な試みは、ただ失敗に終わるだけではなく、必ず、何かの恐るべき報いを伴うこととなる。

筆者はそのようなことが起きないように、モーセが燃える芝の前で靴を脱いだように、自分の超えてはならない分を超えて、立ち入るべきでない領域に足を踏み入れないよう、聖なる領域の前で、心の靴を脱ぐ。

筆者自身も、判決の変更を求めている部分があるが、筆者は、裁判官の下した判断と戦うのではなく、むしろ、判決と筆者の主張の両方を土台に、新たな共同作品を打ち立てるつもりでいる。

そのために一審において言い尽くせなかった新たな主張を加え、新たな証拠を提出し、数ヶ月間を費やし、書面を作成した。ちなみに、高裁では、裁判所ではなく、「裁判体」という言葉が多く聞かれるが、複数の裁判官が事件を裁くわけであるから、その意味でも、新たな判決は共同作品となる。

だが、筆者にとって、一審判決は、まだ筆者の主張に味方する者も、これを公に認める者も、助けの手を差し伸べてくれる者も、ほぼ皆無に近かった頃に下されたものであるという意味で、一人の善良な裁判官の残してくれた、忘れ形見のように、かけがえのないものである。唯一無二の「オーダーメイド」の判決と言ってもよく、これを無に帰するようなことは決してしたくはない。

聖書にはこうある。

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(一コリント15:54-57)

この御言葉は不思議である。なぜなら、朽ちるものと、朽ちないものとの間には、接点はなく、それはどこまで行っても、異質なもののはずである。ところが、聖書は、朽ちるものの上に、朽ちないものが着せられ、死は勝利に「のみ込まれた」と言う。

ここに、筆者の言う「上書き」の原則もある。

一審判決には、幾分か、死の棘がまだ残っている。この小骨のような棘を、敵の主張と共に飲み込み、上書きする過程で、取り除いて行くのである。

それはちょうど壁に塗られたペンキの剥げた部分を丁寧に塗り直しながら、壁全体を新たな色に塗り替えて行くようなものである。

筆者の主張の中で、欠けている部分を補い、古いもの、過ぎ去るべきものを、新しいもので上書きし、覆い、造り変える。

それによって、判決にも新鮮な生きた新しい命を吹き込み、新しい命が、古いものを覆い尽くし、みすぼらしい部分、恥となる部分、瑕疵となる部分は消えて、見栄えのする部分、光栄な部分、完全な部分に変えられる。

どうしても造り変えを拒むようなものも、新たな命に飲み込まれ、覆われて消える。

このように、自らの主張と判決とを合わせて補強・上書きし、さらに新鮮な命の通うものにして行くことができると筆者は信じている。

だが、そうこうしているうちに、おそらくやがて紛争自体が、命によって飲み込まれ、上書きされ、消えて行くだろう。

たとえば、昨年は、筆者は審理を進めることを第一目的として仕事をしていたが、今年は、仕事も審理と同じほど重要になったので、これを守りながら、審理を進めて行くこととなる。そのことは、次第に、紛争が筆者の人生に占める割合が減って来ていることを意味する。これが進むと、やがて実人生の方が、紛争よりもはるかに重いものとなる。
 
そうなる頃には、判決も、筆者の書面も、何もかもが、もはや過ぎ去ったものとして、足の下となり、人生が紛争から解放されることとなる。論敵の主張などは、無かったもの同然に忘れ去られ、消え去ることであろう。

だが、そうなっても、この事件に生きて関わってくれた多くの人々の存在は、筆者の中で、かけがえのない貴重な財産として残るに違いない。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:40-42)

筆者を受け入れ、助けてくれる人たちは、神の御前に覚えられ、筆者と同じ報いを受ける(=似たような性質が分与される)。また、筆者自身も、彼らから何がしかの性質を受け、そこで「命の交換」が行われる。

筆者が紛争を通して裁判所や警察に関わり、それによって彼らの仕事の内容を知り、それが筆者の血肉のようになって、紛争が終わっても、そこを立ち去ることなく、筆者の生きるフィールドに定めたいと願ったように、筆者に関わった人々も、信仰者でなくとも、筆者から何か大切なものを受ける。(むろん、筆者の与えられる最高のものは、キリストご自身である。)

このようにして、何がきっかけであるにせよ、新たな命の通う、真実で、良き関係を築くことは可能なのである。

今や筆者は紛争の当事者という立場を離れ、これを天高くから、まことの裁き主と一緒に、見下ろす立場に立とうとしている。天の御座に就いておられる方が、地上におけるすべての物事をはるか足の下に見下ろすことができる視野を与えて下さる。

だから、筆者は自分の人生を、紛争から徐々に解放すると同時に、より自分自身という一人の限界ある人間の立場を離れて、物事を見るよう促されている。少しずつではあるが、筆者はこれまで絶え間なく行って来た「モーセの書」の作成とそのための議論から解かれ、膨大な書面からも解かれて、顔を上げる。

その時、私たちは、サタンの訴えの前に必死になって自己弁護を行う当事者の立場を離れ、むしろ、モーセの書を事件ファイルのように手にしながら、まことの裁き主なる神と共に、地上のすべてのものを足の下に治め、敵(サタン)を目の前に、私たち信じる者には勝利を、敵には敗北を力強く宣告することになる。

そうなるまでの間、筆者はこの紛争から、学べるだけのものを学び、これを糧として吸収し、その教訓を活かして、自分以外の人々にも利益をもたらす秘訣を探ろうとしている。それができるようになった頃、この紛争はすっかり終結して、誰にも用のない抜け殻のようになって、消えて行くことになろう。

紛争によって筆者に重荷をもたらそうとした者たち、また、その渦中で筆者を見捨てて行った者たちが、その頃、どこでどうなっているか、筆者は知らない。可能な限り、筆者はそうした人々をも、敵に引き渡すことなく、取り返したいと願っているが、仮に彼らが戻って来なかったとしても、その代わりに、新しい人たちが筆者の人生を占め、にぎわせるだろう。

筆者が以下の御言葉を引用したのは、2018年2月のブログ記事「十字架の死と復活の原則―敵のあらゆる力に打ち勝つ御名の絶大な権威を行使し、サタンを天から投げ落とし、イエスの命を体に現す―」のことである。

それから今まで、筆者は猛特訓を受けて、勇気と力を与えられた。筆者の人生においては、以下の御言葉における多くの事柄が成就したものと思う。

「主のほかに神はいない。
 神のほかに我らの神はいない。

 神はわたしに力を帯びさせ
 わたしの道を完全にし
 わたしの足を鹿のように速くし
 高い所に立たせ
 手に戦いの技を教え
 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

 あなたは救いの盾をわたしに授け
 右の御手で支えてくださる。
 あなたは、自ら降り
 わたしを強い者としてくださる。

 わたしの足は大きく踏み出し
 くるぶしはよろめくことがない。
 敵を見、敵に追いつき
 滅ぼすまで引き返さず
 彼らを打ち、再び立つことを許さない。
 彼らはわたしの足元に倒れ伏す。
 
 あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ
 刃向う者を屈服させ
 敵の首筋を踏ませてくださる。
 わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。

 彼らは叫ぶが、助ける者は現れず
 主に向かって叫んでも、答えはない。
 わたしは彼らを風の前の塵と見なし
 野の土くれのようにむなしいものとする。
 
 あなたはわたしを民の争いから解き放ち
 国々の頭としてくださる。
 わたしの知らぬ民もわたしに仕え
 わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
 敵の民は憐れみを乞う。
 敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

 主は命の神。
 わたしの岩をたたえよ。
 わたしの救いの神をあがめよ。

 わたしのために報復してくださる神よ。
 諸国の民をわたしに従わせてください。
 敵からわたしを救い
 刃向う者よりも高く上げ
 不法の者から助け出してください。
 
 主よ、国々の中で
 わたしはあなたに感謝をささげ
 御名をほめ歌う。
 
 主は勝利を与えて王を大いなる者とし
 油注がれた人を、ダビデとその子孫を
 とこしえまで
 慈しみのうちにおかれる。」(詩編18:32-51)

以上の御言葉の後半はこれから成就しようとしている。報復の時、敵に対する裁き、敵の敗北、そして、キリスト者の完全な勝利は、これからもたらされる。

だが、それと同様に、筆者の心の中にはいつも次の聖句がある。テーマは「失われたものの回復」である。

「島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた

 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。

 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。

 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。

 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために

 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。

 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 イスラエルを贖う聖なる神、主は
 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。

 王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
 真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
 あなたを選ばれたのを見て。

 主はこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに答え
 救いの日にあなたを助けた。
 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
 民の契約とし、国を再興して
 荒廃した嗣業の地を継がせる。

 捕らわれ人には、出でよと
 闇に住む者には身を現せ、と命じる。

 彼らは家畜を飼いつつ道を行き
 荒れ地はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。
 太陽も熱風も彼らを打つことはない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

 わたしはすべての山に道をひらき
  広い道を高く通す。

 見よ、遠くから来る
 見よ、人々が北から、西から
 また、シニムの地から来る。

 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 主は御自分の民を慰め
 その貧しい人々を憐れんでくださった。

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。

 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。
   あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

 破壊され、廃虚となり、
 荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子らは
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。

 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう。

 そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。

 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。 」(イザヤ書第49章)


実際に、神は力強い助け主として、筆者と共にいて下さり、多くの人々を筆者の前に連れて来て下さっている。筆者はこれらの人々を花嫁の帯の飾りのようにつなぎ合わせながら、心に思う、「私は助けのない状態に、一人で置かれていたはずなのに、この人々はどこから現れたのか」と。

さらに筆者はいつか周囲を見渡してこう思うだろう、「私たちにはもっと広い場所が必要だ。ここは住むには狭すぎる」と。その願いは筆者の内にすでに生まれている。

主がどのような形で、今後、信じる者の人生を豊かに満たして下さるかは分からないが、筆者はすでに泉のほとりに導かれた。判決が守りの盾になるように、まして神の御言葉は、私たちの揺るぎない強固な防衛の砦であって、これにより頼む者と争う人は、主ご自身と争うのである。

だから、そのような争いには主ご自身が応えて下さり、私たちはその重荷を負わなくて済む。

改めて、筆者はこの年の後半、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」という御言葉の意味を知りたいと願っている。
  
「書類から人へ」のシフトは、ゆっくりではあるが、確かに進行中で、干潟に流れるうたかたのように、紛争もゆっくりと終わりに向かっている。
 
神に望みを置く者が恥を受け、敗北に終わることはない。その御言葉は、真実であるから、主が筆者の人生をどのように豊かな宝で満たし、飾って下さるのか、楽しみにしている。  

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人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。

実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それならば、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。

権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。

あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(ローマ13:1-7)
 
奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい

あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。

主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(エフェソ6:5-9)

奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。

あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。

主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」(コロサイ3:22-25,4:1)


* * *

前回、「顔を上げて主をまっすぐに見る」必要性について書いた。

聖書には「目を上げて・・・を見よ」というフレーズが幾度も登場している。

該当する聖書箇所を探そうと検索すると、以下のコラムが見つかった。特定の教会の宣伝のためではなく、これまでの記事内容に重なる非常にタイムリーな内容として、あえて引用しておきたい。

目を上げて遠くを見よ」(キリストの栄光教会 2015 年 4 月 25 日)

「聖書には、「目を上げて、見る」という表現がたびたび出てきます。

ヨシュアがヨルダン川を渡り、未知の敵地カナンに踏み込んだとき、偉大なる主の軍の将に出会ったのは、「彼が目を上げて見る」ことによってでした(ヨシュア 5:13)。その方は「抜き身の剣を手に持って」ヨシュアの前方に立っておられました。下を向いたり、自分を見つめたりしても、強大な敵と戦う力は受けられません。不安になるだけです。

詩篇の作者は歌いました。「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ」(詩 123:1)。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩 121:1)


なぜ高くそびえる山があり、広大な海があり、突き抜ける空があり、月星の世界があるのか。それは、私たちが目を上げ、遠くを見るためです。


アランというペンネームで知られるフランスの思想家エミール=オーギュスト・シャルティエがこう語っています。「抑うつ病にかかっている人に、わたしの言いたいことは、ただ一つしかない。『遠くを見よ』・・・人間の目というものは、書物との間の距離のような短い距離に合うようには作られてはいない。広々とした空間のなかで憩うものなのだ。星や水平線をながめていれば、目はすっかり安らいでいる。目が安らいでいれば、頭は自由になり、足どりもしっかりしてくる。身体全体がくつろいで、内臓までがしなやかになる。・・・自分のことを考えるな。遠くを見よ」(『幸福論』社会思想社)。


地上のことで悩むより、目を上げて、はるか遠くを見よ。今が苦しいのなら、天にある国籍を思え。やがて私たちのために完成され、住むことになる永遠の神の国に思いを馳せよ。日常のさまざまな出来事の只中にあって、目を上げ、主を見よ。そうすれば、何が大切かそうでないかが分かってきます。過ぎ行く事々に振り回されず、まず永遠を見つめましょう。」


 
* * *

前回、「書類から人へ」の移行が、筆者の人生に徐々に起きつつあることを書いた。

先日、仕事中、書類とパソコン画面に見入っていると、現場を巡回していた上司が、さりげなく筆者の様子を気にかけて、声をかけて行った。

筆者が目を上げて書類から人へ視線を移し、自分の上に立てられた権威者を見上げる瞬間である。

滅多に会えるわけではない上司であるが、この人とも、第一審において、裁判所がくれた判決が筆者を出会わせてくれたのである。

その人は、一審を担当した裁判官と、どこかしらよく似た雰囲気と経歴を持つ人物であり、決して人を脅かしたり、上から権威を振りかざして人を威圧することなく、誰をも辱めることなく、誰に対しても、穏やかに、明朗に接することのできる不思議な能力を持っていた。

人の心の痛みをよく知る、砕かれて謙虚な心を持つがゆえに、そのようなことができるのだろうと感じさせられる。

こうして、会うたびに、この人に着いて来て良かったと思える上司は、存在自体が稀有であり、そのような出会いは、人生における大きな財産であると言えよう。
  
上司は、短い言葉で、筆者に向かって、仕事の様子を尋ねたが、言外にこう述べているかのようであった。

「今はすべてが過渡的な段階にあるため、あなたには環境に様々な制約があるように感じられることもあるかも知れません。でも、私はあなたに、自分で自分に制約をもうけないで欲しいのです。あなたにはすべての状況を乗り越える力があると信じています。あなたには私たちの期待に応えるだけの力があります。だから、できないとは言わないで下さい。私たちにはあなたの協力が必要なのです。私たちを信じて着いて来てくれますね?」
 
筆者はそれに頷いて言外に答える。「もちろんです。私はあなたの目指す方向を信じて、それに従いたいと思って、ここに来ることを望み、呼ばれて来たのです。ですから、環境の制約に目を留めることはもうしません。環境は、時間が経てば整うでしょう。でも、もしも初めからすべてが整っていれば、そこには私のいるべき場所はなく、果たすべき役割もなかったかも知れません。私はあなたを失望させないために、ここに置かれたのですから、あなた方に着いて行き、自分の役目を果たします」

むろん、以上のような受け答えが、文字通り、あったわけではなく、実際には、ただ二、三の短い言葉を通して、筆者の心が改めて問われたのであった。困難に遭遇したとき、どのような態度を取るか。権威に対して、どう接するか。自分のために、権威者にすべてを提供してもらうことだけを望むのか、それとも、彼らが望むことに従い、共に協力してすべてを作り上げて行くのか。穏やかで優しい問いかけではあっても、そこには深い意味が込められていたように思う。

筆者は、一審の最中、自分の上に立てられた権威である裁判官を信頼し、正しい裁きが得られることを信じて、その采配に身を委ねられるかどうかを試された。様々な波乱が起き、望ましくない出来事が次々と起きる中、信頼関係を断ち切られることなく、協力して物事を前に進めることの大いなる意味を学ばされたのである。

今はそうして得た判決を携えてやって来た新たな場所で、地上の権威としての上司を敬い、困難の中でも、彼らに従い、協力してすべてを成し遂げられるかを試されている。

聖書が教える通り、地上における権威者は、天におられる権威者を象徴している。だから、地上の主人に対して、僕である私たちが、真心を込めて従うかどうかは、非常に重要な選択であって、地上の主人に対し、様々な不満を心に抱えつつ、神に対してだけは、従順に従うということは、無理な相談であろうと筆者は思う。

職場に限らず、私たちは、この世に生きる限り、あらゆる場所で、実に多くの制約を負う。実に多くの、自分の願いとは合致しない、理想からはほど遠い、混乱した状況、あるいは、理不尽と見える状況にも遭遇する。

だが、そうして望ましくない状況に遭遇する時にも、そこに神の采配が働いていることを信じられるか、目に見える状況がどうあれ、神のご計画には、いささかの理不尽も、狂いもないことを信じ、上に立てられた権威を通して、主の御手が自分に働いていることを理解し、その采配に従うことができるかどうかを、私たちは常に試されている。

筆者の心は、いかなる不合理な事件に遭っても、いつも穏やかで、一切揺るがされないなどとは言い切れるものでないが、それでも、常に神の采配が万全であり、完全であることを信じ、主に従って歩みたいと願わされている。間違っても、状況の理不尽さだけに目を留めて、自分を犠牲者のように考えたいとは思わない。
 
だが、もしも私たちが、目の前にある制約や、望ましくない不合理な条件だけに目を留めて、神や、上に立てられた権威者は、自分に理不尽かつ不可能なことばかりを求めていると感じ、自分を不憫に思って、彼らに不信感を抱いて、彼らに従うことをやめ、前進をやめれば、そこで、主が私たちをそこに配置して下さり、始めようとしておられたすべてのプロジェクトも、終わってしまう。

私たちの心がそのような状態になって、自分の限界でいっぱいになってしまうと、地上における協力関係は断ち切れ、私たちを配置した権威者にも、もはやどうすることもできない。

むろん、権威に従うとは、私たちが自分の判断を一切放棄して、権威者の言うことにただ盲従することを意味せず、理不尽な命令にまで黙って従って、自分をいたずらにすり減らすことをも意味しない。あくまで判断は、私たち一人一人が自分でせねばならないのであり、誰からの指示や命令を受けた時であれ、限度を超えて、何かを行うようなことをしてはならない。

しかし、決して誰かの言い分にロボットのように従うのではなく、あくまで自分自身の判断を保なちながらも、様々な制約に直面しても、決してあきらめることなく、上に立てられた権威を心から敬い、主に仕えるように、真心からその人たちに仕え、彼らの指示や命令に従いながら、彼らと手を携えて、共に協力して困難を打破して、前に進んで行くことは可能なのである。

そうした協力関係が打ち立てられる時、そこからは、ただ単に何か自分の願うことを達成したと言うだけにはとどまらない、不思議な関係と効果が生まれて来る。山上の垂訓がまさに地上に引き下ろされ、神の御心がこの地に実現したと言う他のない、命の水の流れが生まれ、周囲が潤される。

困難に直面したとき、自分の限界から目を背けるために、不都合な事実から目を背け、互いに重荷を押しつけ合い、責任をなすりつけあって、責め合って終わるのか。それとも、様々な限界を背負ったままで、互いを信頼し、協力しながら、進んで行くことができるのか、どちらを選ぶかによって、人生は大きく変わる。

本当は、そのような協力関係を打ち立てるためにこそ、筆者は仕事をしている。ただ労働を提供することが、働くことの真の目的なのではなく、その働きを通して、あるべき秩序が打ち立てられて、人々が解放されることこそ、真の目的なのである。だから、筆者が人々に与えられる最大の成果は、労務を超えたところにあると、筆者は確信している。筆者が人々に提供できる最高のものは、正しく、価値ある尊い目的意識を共有し、そこに共に手を携えて向かって行くというビジョンである。

もしも裁判官が正しい裁きを象徴し、上司が部下に最高のねぎらいを与えてくれる主人を象徴するならば、筆者は、彼らの裁きと命令に従順に従い、その権威に服し、彼らの心を満たすことで、栄光を帰する僕を象徴する者であると言えよう。

僕の最高の役目は、主人に栄光を帰することにあり、その役目を果たし、正しい秩序に服し、あるべき関係をもたらすことこそ、筆者の本当の意味での「労務」なのかも知れないと思う。

つまり、筆者は、何かしら人々を圧倒するような輝かしい労働の成果を個人的に求められたがゆえに、ここに配置されているわけではなく、ただ僕としての役目を心から全うすることで、主人に仕え、主人の心を満たし、人々との間にあるべき秩序と関係をもたらすために、呼ばれて来たのである。それを果たすことこそ、真の意味で、筆者に与えられた「労務」なのであろうと思わずにいられない。
   
* * *
 
さて、法廷に入廷した当事者たちは、裁判官が法廷に入って来て開廷を宣言する瞬間を、沈黙のうちに待ち望む。そして、裁判官の姿を見ると、立ち上がって礼をし、裁判官が法壇に就いて事件ファイルを開き、発言し始めるのを一心に待つ。

当事者は、自分たちに下される裁きを気にかけていればこそ、裁判官から目を離すことができない。

裁判官は、法廷においては、一人の人間であるというより、裁きそのものの生ける象徴である。正しい裁きを恐れなく待ち望む者にとっては、切に待ち焦がれた解放の宣言の体現者であり、他方、己が悪事を明るみに出され、不利な裁きが下されることを恐怖する者にとっては、恐るべき権威者である。

むろん、地上における法廷は、信仰とは関係がないとはいえ、筆者は、正しい裁きが下されることを切に待ち望む者の一人として、地上の法廷に、天的な裁きの絵図を見いだし、地上の裁判官の姿に、まことの正しい裁き主の姿を重ね、判決を支える法にも、神の揺るぎない掟である御言葉を見ないわけにいかない。それゆえ、地上の法廷に、尽きせぬ畏敬の念を抱かずにいられない。

以前からずっと書いているように、筆者の思いは、この地上に正しい裁きをもたらす神秘的な干潟としての法廷に魅了されてしまい、審理が開かれていない間も、そこから思いが離れられなくなった。筆者の心の中心には、常に見えない法廷が置かれ、筆者の思いも、正しい裁きとそれをもたらす法の周りを常に行き巡っているような有様である。

そのような筆者の思いは、ダビデが詩編に綴っている思いとどこかしら重なる部分があると感じる。
 
私たちが今、この地上に生きている一瞬一瞬のすべては、あたかも天におられるまことの裁き主に対して、私たちが申し開きのために書き記している目に見えない「準備書面」や「陳述書」のようなものである。
 
詩編には、随所で、神の正しい裁きを願う作者の思いが綴られているが、私たちも、自分が人生で置かれている見えない法廷において、神に対して常に正しい裁きを願い求め、また、自分なりの申し開きをしている。

正しい裁きをもたらすために必要なものは、言うまでもなく、正しい掟、すなわち、神の御言葉であり、神を愛する心と、神の掟である御言葉を守り、それに従って生きたいと願う心は、一つである。

私たちは、神を信じると言っても、ただ漠然と知りもしないものを信じているのではなく、神の御言葉を信じ、これに従って生きていればこそ、神も私たちを裁きの時に擁護して下さる。それは、裁判官が、法を守らない当事者を、全く擁護できないのと同じで、正しい掟を守っていればこそ、正しい裁きを求め、それを受けることができると信じられる。
   
詩編第1編は、次の有名な言葉で始まっている。

「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
 
ダビデは、神を愛し、神の正しい裁きを待ち焦がれるがゆえに、昼も夜も、神の掟である御言葉に思いを馳せて、その教えから片時も注意を逸らしたくないと考えていた。

主の教え(神の掟、御言葉)とは、律法を指すが、今日の言葉に置き換えれば、法にたとえても良いかも知れない。

むろん、この世の法には、いかなる宗教的な意味合いもなく、それは神から発せられた御言葉そのものでもないが、この世の法もまた、神の掟の絵図であり、神の御言葉を守って生きることは、この世の法に従って生きることと決して矛盾しない。
 
そして重要なのは、うわべだけ法律の条文に精通して、自分を専門家のように見せかけることではく、その掟を生み出した精神そのものを愛し、正しい定めに従って生きることである。

正しい掟に従って生きるとは、命の水の湧き出る泉のほとりに住むのと同じで、必ず、その人の人生を潤し、繁栄をもたらしてくれる。正しい掟を守って生きている人が、悪人と一緒に、いたずらに罰せられ、死に定められることは決してない。

ダビデは、生涯を神の掟に従って生き、死ではなく、命を見たいと願い、そのことだけを日々思い続け、神の掟から逸れることがないよう、「むなしいものを見ようとすることから わたしのまなざしを移してください。と主に願った。

詩編第119編の中盤にはこうある。

「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。
 最後までそれを守らせてください。
 あなたの律法を理解させ、保たせてください。
 わたしは心を尽くしてそれを守ります。
 あなたの戒めに従う道にお導きください。
 わたしはその道を愛しています。

 不当な利益にではなく
 あなたの定めに心を傾けるようにしてください。
 むなしいものを見ようとすることから
 わたしのまなざしを移してください。

 あなたの道に従って

 命を得ることができますように。

 あなたの僕に対して、仰せを成就してください。

 わたしはあなたを畏れ敬います。
 わたしの恐れる辱めが
 わたしを避けて行くようにしてください。

 あなたは良い裁きをなさいます。

 御覧ください
 わたしはあなたの命令を望み続けています。
 恵みの御業によって
 命を得させてください。」(詩編119:33-40)

これはダビデの必死の懇願のように感じられる。彼は、主の教えを守り、そこから逸れることさえなければ、神がやがて来られて正しい裁きをなし、正しい命令を発して下さるときに、自分は必ず、すべての災いから救い出され、命と幸いを得ることができると信じ、それゆえ、昼も夜も、神の正しい掟と、その裁きに思いを馳せて、地上にありながら、神の御思いと一つになって、その只中を生きたいと願い続けた。

そのダビデの思いは、筆者にとっては、法廷において、当事者が何とかして裁判官の心の内を知り、その心をとらえたいと願い、その裁きによって生かされたいと願う思いを思い起こさせる。裁判官は、法の体現者であり、正しい裁きの象徴であるから、その裁判官の心を探ろうとすることは、当事者自身が法によって守られ、生かされようとすることと同じなのである。

筆者は判決を得ただけでは満足せず、もっと法そのもに近づき、より(まことの)裁き主の心を知りたいと考え、そのために、見えない裁き主の姿を追い、片時も正しい掟のそばを離れずにいられるように、法律の世界に足を踏み入れた。そうした筆者の願いは、神を愛し、昼も夜も主の教えを思い、これと一つになって生きようと願ったダビデの心と、共通する部分があると感じられる。

ダビデは、主の教えを追い求めつつ、一つの願いを心に抱く。それは、神の住まう家を建てるため、神殿を築きたいという願いである。

その神殿建設の夢は、神の願いに合致しており、神の御心を、非常に大きなスケールでとらえたビジョンであった。すなわち、地上の建物を建てることが、彼の終局的な目的なのではなく、ダビデは神が真に望んでおられることは、人がやがて完全に贖われて、神の住まう聖なる幕屋となり、神が人と共に住まい、神と人とが完全な一致に至ることであると、知っていたのである。その神の願いを地上において表現したものが、神殿建設であった。

その神殿は、ダビデの代で完成することはなかったが、神はダビデが絶えず自分の主人の心を探り、主人の心と一つになって生きたいと願っていたことを知っておられ、僕としての彼の思いを評価され、その存在を重んじられた。

さて、聖書には、キリストと人との合一、すなわち、人が完全に贖われて神の御心を満足させる新しい人とされ、神が人の内に住まわれ、花婿なるキリストと花嫁なる教会が、完全に一致の中に入れられるという、永遠の合一が予告されている一方で、それとは異なる、もう一つの「合一」がある。

それは、神を介さない、人間同士の偽りの集団的合一である。先の合一は、永遠性を持つが、後者の合一は、束の間でしかなく、やがて分裂に至り、跡形もなく消え去る偽りである。

「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。

「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」
(創世記. 11:1-9)

バベルの塔を建設した人々は、神の掟には思いを馳せず、自分たちの主人の栄光を求めるのではなく、僕に過ぎない自分たちの栄光を築き上げるために、一致団結して、天まで届く(永遠の不滅の)家を建てようと試み、一代でそれを築こうとした。

言い換えれば、彼らは自分自身を神として、自分のための神殿建設をしようとした試みたのである。彼らの連帯は強固であり、その作業は万全であった。

ところが、まことの主人の思いを抜きにした彼らの連帯は、分裂によって崩され、意思疎通が不可能になり、建設は途上に終わることとなる。
 
この二種類の建設の違いは何だろうか?

バベルの塔の建設に向かった人々は、うわべは連帯しているように見えたであろうが、実際には、最初から、めいめいがてんでんばらばらな願望を抱いて、その塔に自分勝手な欲望を重ねるために集まっていたに過ぎない、烏合の衆であったものと筆者は思う。

その塔の建設は、自己満足、自己義認、自己肯定、自己充足など、すべて神を抜きにして、人類が自分で自分の欲望を満たすための自己実現の試みでしかなく、人が大勢集まっているがゆえに、そこには孤独はなく、勢いがあるように見えたかも知れないが、実際には、そこにはただ人の思いがあるだけで、神からの承認はなく、人々の間でも、真実な連帯も、協力も、相互理解も、助け合いも、存在しなかったのである。

おそらく、信仰を持たない地球上の多くの人たちは、今でも、自分たちの思い、感覚、意志こそが、すべてに勝るリアリティだと考え、そこから一歩たりとも外へ出ることなく暮らしているものと思う。彼らは、自分たちが傷つけられた時の痛みには、非常に敏感で、神でさえ、彼らの言い分に耳を傾けるべきであると確信し、自分たちが力強く前進しているときには、その成果には、神も目を留めて下さり、よくやったとねぎらって下さらねばならないと確信している。

要するに、何をするにも、考えるにも、彼らの思いは自分を中心としており、神に対して何かを願うときにも、あくまで自分の願いが中心にあって、神は彼らの願いを承認するために、お飾りのように存在しているものに過ぎない。

もしも人の判断と、神の判断にズレがあることが分かったとしても、彼らは、自分たちには、神をさえ説得することが可能であると思い込み、神が自分たちの言い分に耳を傾けて下さらないと分かるや否や、そんな神は要らないと、神を踏みつけにして、自分たちの思いを遂げるために、めいめい好き勝手な方向へ前進して行くことであろう。

筆者が何を言いたいのかと言えば、人間は生まれながらに、自信満々で、常に自己充足しており、喜んでいる時も、悲しみ、打ちのめされ、失望落胆している時でさえ、常に自分の感情だけで、心をいっぱいにし、それを中心にして、自己充足しながら生きているのであって、神を必要としておらず、間違っても、自分たちが「誰かを待っている存在」であり、「誰かがやって来て、命を吹き込んでくれなければ、決して完全にはならない、他者の承認を待つだけの、命の通わない、空っぽで、死んだ存在」であるとは考えていないということである。

この人たちにとっては、自分の思い、行動、感情がすべてであり、自分こそが、リアリティであり、神は自分たちの言い分を権威付けしてくれるための添え物でしかない。そこで、彼らは、たとえ神の名を語っているように見える瞬間があっても、本当は、心の中で、神など全く必要としていない。

筆者はそういう生き方の無意味なることを知っていたが、第一審の最中、改めてそうした自己充足の殻の中から、外に連れ出され、自分自身から目を離し、自分を生かすことのできるまことの権威者だけを信頼して見つめるよう促されたのであった。
  
私たちの移ろいゆく思いの中には、リアリティはなく、私たちが確かな存在を見つめる時にだけ、私たちの存在も、確かなものになる。

だから、自分から目を離し、むなしいものを見つめるのをやめ、敵対者の言い分や、心を煩わせる様々な事象に惑わされることをやめて、揺るぎない信頼の中で、自分を生かすことのできるまことの主人だけを見つめるよう、絶え間なく促されたのである。

ほとんどの人たちは、おそらく、自分の人生の主役は、自分自身であると確信していることであろうが、実はそれさえも事実ではない。
  
人間の思い、感情、考えは、人から見れば、それこそがまさしく現実のように感じられるであろうが、それらは実際には、裁判官から認定されるのを待ってうず高く積み上げられている書面のようなもので、光が当てられて、まことの主人から認められなければ、その一切の思いはむなしく、リアリティを持たない、移ろいゆく影のようなものに過ぎない。

闇の中に咲く花は、朝日が昇らない限り、人々の鑑賞の対象となることはなく、存在していることさえ、誰にも気づかれないように、まことの主人がやって来られて、私たちの存在を認めて下さらなければ、私たちは存在そのものが、むなしく、闇でしかない。どんなに人が渾身の訴えを作り上げ、どれほど人としての思いを吐露しても、その感覚も、思いも、存在も、すべてがむなしく、生かされることなく、始めから無かったもののように、空中に消えて行くものでしかない。
 
神が私たちの訴えを取り上げて下さるからこそ、私たちの主張や存在が生きるのであって、それなしに自分で自分を是認することは、私たちにはできない相談なのである。

つまり、法廷の主が、当事者ではなく、裁判官であり、法廷に入って来た裁判官が、審理の場を完全に支配してしまうように、筆者が人生において呼び出されている目に見えない法廷の主役も、筆者ではなく、筆者を超える権威者が存在する。

その権威者の眼差しが、徐々に筆者をとらえ、筆者の存在を、自分中心から、まことの主人を中心とするものへと変えて行った。その時、筆者が頼みとし、よすがとしていた様々な力も、単独ではすべてむなしいことが判明したのである。
   
被造物の存在は、目に見えないまことの主人に認められ、評価されるためにこそある。そこで、まことの主人とのパートナーシップが成り立たないのに、被造物だけが単独で何を訴え、何を成し遂げたとしても、それは誰からも認められず、生きた現実とならないむなしいものでしかない。

私たちの人生は、まことの主人である見えない神に仕え、この方の権威に服し、その方を喜ばせるために与えられている。そのまことの権威者から是認されずして、私たちの存在が、リアリティを帯び、満たされ、生かされることはないのである。

そのことを、筆者は自分では知っていると思っていたが、審理を通して、改めて教えられた。すなわち、人は外側からの承認(神からの承認)を受けなければ、決して自力では完全になれない存在であり、それが被造物の変えることのできない性質であり、ある意味で、「女性性」と呼んでも良い性質であり、限界なのだと。
 
そうして、筆者は、自分の存在が影に過ぎないことを知らされたのであるが、それは決して、悲しんだり、落胆すべき出来事ではなく、むしろ、それは筆者に被造物たる人間の本質を、そして、私たちには、まことの主を待ち望むという使命が存在すること、主が来られたときにこそ、私たちの存在が完全になるという喜ばしい事実を、改めて教えてくれた。

それが分かったときに、筆者は自分の超えることのできない被造物としての限界が、とても喜ばしいものであって、筆者のまことの主人に栄光を帰するものであるという不思議が分かったのである。

僕は、僕であればこそ、主人に栄光を帰することができる。僕が主人のようになり、主人を超えようとすることには、何の意味もない。

時折、職場にやって来る上司は、裁判官と同じように、筆者は自分のために生きているのではなく、自分の上に立てられたまことの主人たる権威者の思いを体現し、その主人を喜ばせるために生きているという事実を思い起こさせてくれる。

これまで、自分のために働き、自分の望みに従って生きていた筆者は、自分の人生が、自分自身のためにあるのではないということが分かったときに、方向性を大きく転換した。

もちろん、筆者は信仰者として、死んでよみがえって下さった方のために生きていることを信じてはいたが、それでも筆者の人生には、まだ真の意味で、他者というものが訪れたことがなく、天におられるまことの主人を喜ばせるために、地上生活を送るとは、どういうことなのかを、具体的に知らされていなかったのである。

訴訟における審理が、早くとも月1回程度のペースでしか開かれず、裁判官に会うことも少なく、その時間も短いように、筆者に最初にミッションを与えてくれた上司が、職場に稀にしかやって来ないことにも、何か意味があるように思われてならない。
  
それは、主人の姿が見えないと、僕たちの心が一層、露わにされるからである。主人に観察されることを望まず、何事も自分の思い通りにしたいと望んでいる僕にとっては、主人の到着は、全く喜ばしい出来事ではなく、来ない方が良い瞬間である。

しかし、常日頃から、主人に仕えるために、心を砕いている僕にとって、主人の到来は、喜ばしい訪れであり、その眼差しは、決して厳しいものでも、不快なものでもない。

その主人は、私たちが用意もできていない時に、私たちを辱め、恐れさせるために、不意にやって来るのではないし、主人から目を留められ、働きを報告するよう求められることは、僕の労苦がようやく報われることを意味するから、忠実な僕にとっては、何ら戸惑うべきことではなく、むしろ、待ち望む瞬間である。

その方は、気づくと、もう私たちの心の戸口に立って、扉を叩いている。私たちがその求めに応じて、戸を開けるなら、彼は私たちの口から、嬉しい報告を聞くことを期待しつつ、静かに私たちのそばに立ち、笑顔で声をかけて、苦労をねぎらってくれる。
 
私たちが困難の只中にあることが分かれば、「私が着いているのだから、あなたにはきっとできるはずだ」と力づけ、励ましてくれる。

「あなたがたには世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) 
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(コリントニ12:9)

 
こうして、目には見えずとも、私たちには、決して私たちを置き去りにしていくことのない真の主人が着いておられる。だから、僕としての限界、制約は、私たちにとって重荷とはならない。この方に仕え、その眼差しをとらえ、評価を受けようとして生きることが、どうして光栄でないはずがあろうか。

それに引き換え、ただ自分で自分を肯定するために、誰にも仕えず、誰にも承認されることのない、終わりなき一方的な自己主張を繰り広げながら、自己充足のために、自分で自分を栄光化する建物の建設を続ける作業は、大変、むなしく、報われない孤独な奮闘である。

自分のためにどんなに立派な神殿を建てても、そこに住まうのが、自分一人であれば、それは家と呼ぶべき場所ではなく、また、光栄であるはずもない。自分で自分をどんなに肯定してみたところで、そこから何が生まれて来るのだろうか。そびえたつ絶壁と、高い塔は、一見、人間にとっては、孤独とは無縁の、栄光に満ちた住まい、強固な守りの砦であるように見えるかも知れないが、それはどこまで行っても、人類の独りよがりでしかない、家とは呼べない、断崖のような孤独な住まいであり、そこで行われるすべての営みも、人類の自己満足に過ぎないものとして、誰からも認められることなく、やがて塔が崩れ去るときに、始めから無かったもののように、忘れ去られて終わるだけである。もともと自分しか認められない人間が、地上からいなくなったとて、誰がその人間を思い出してくれるのだろうか。
 
被造物は、神を抜きにして、決して完成に至ることはなく、人類だけでどんなに団結しようと、神からの承認がなければ、人の一切の営みは無意味である。

だから、筆者は目を上げて、自分自身の思いと、移ろいゆく地上の有様から目を離し、ただ一人の目に見えないまことの主人の到来を思いつつ、それを待ち望む。花嫁なる教会が、花婿なるキリストを待つように、天におられる方を仰ぎ望み、こう言わずにはいられない。「来たりませ」と。

その方が来られるとき、私たちには真の慰めと、栄光が与えられ、すべての労苦はねぎらわれ、豊かな満たしがある。

地上における日々は、見えない主人の到来を待ち望むために与えられた貴重な訓練期間である。
 
* * *
 
最後に、使徒パウロが、コリント人への手紙の中で、教会内で起きた紛争をこの世の法廷に持ち出し、この世の裁判官に裁きを委ねることに反対した背景には、キリスト教とは完全に異質な異教の神々への信仰を土台とするローマ法という特殊事情があることについて書いておきたい。

これを「特殊事情」と呼ぶのは、今日の我々の生きている時代の法と、パウロ存命当時のローマ法とは、その土台となる理念も概念も異なるためである。

当時、ユダヤ人たちは、ローマ帝国の中でも一定の自治を保っていたようであり、その自治は、宗教的にも、ある程度認められていたものと見られる。それでも、ユダヤ人たちが、もしくは、異邦人も含め、教会内にいる信者たちが、自分たちの間で起きた紛争に対する裁きを、この世の法廷に訴え出れば、その紛争は当然、ローマ法に従って裁かれることになる。しかし、多神教への信仰を理念とするローマ法に従って、どうしてキリスト教会内で起きた紛争を裁けるのか。

しかも、以下で示す、パウロがコリントの信者たちに宛てて書いた忠告では、当時、教会内の信者たちが、およそ信仰とは関係のない日常的な事柄を巡って、争い事を起こし――たとえば、土地や、所有物や、金銭や、日用品や、食べ物などを巡って――多数のトラブルが発生し、そうしたこの世的な些末な争い事を、教会内では仲裁できる者もなく、誰もがこれを放置した挙句、結局、仕方がないから、その争いを世の法廷に持ち出し、そこでおさめてもらおうと、信者たちがこの世の裁判において、紛争を起こそうとししていた様子が分かる。

パウロはそうした争いのみっともなさ、矛盾を指して、そんな争い事を世に持ち出すことは、信徒の名折れであり、教会を辱めるものであり、それ自体が敗北以外の何物でもない、ということを述べたのである。

「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。

聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。

それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。

兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。

なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。」(コリント人への手紙一6:1-9)


今日、私たちは異教の神々を信奉する理念のもとに作られた法体系の中を生きているわけではなく、また、筆者は日常的な争い事をおさめるために、兄弟と呼ばれる教会の信者との争い事を、この世の法廷に持ち出しているわけでもないから、以上のくだりと、筆者の提起した訴訟との間には、多くの相違点があることは言うまでもない。
 
さらに、筆者は、この世の裁判所の人々は、私たちと同じ信仰者ではなくとも、同時に、異教の神々を信奉し、その理念に基づいて人々を裁く者でもないから、私たちは彼らを上に立てられた権威として尊重し、服すべきであるとみなしている。もちろん、裁判所のみならず、この世のすべての権威は、同様に敬うべきであると考えている。

とはいえ、以前にも書いたように、パウロはここで、キリスト者一人一人が「世を裁く者」、「天使たちをさえ裁く者」であると告げていることは重要であり、これは、信仰によって、想像を超えた絶大な権威が、私たち一人一人信じる者に与えられていることを意味する。

主の御名は、すべての名に勝る絶大な権威であるから、この方の御名の権威を与えられている私たちキリスト者一人一人も、地上のすべての物事を超越する存在なのである。この世のどんな為政者も、権力者も、私たちの中にあるまことの命を否定することはできないし、これを消滅させることもできない。地上のすべての物事は、一見、権威ある人々の発する命令から始まるように見えても、実際には、私たちが信仰によって抱く望みによって始まり、信仰によって完成させられる。
 
だが、そのように絶大な御名の権威を託されているからと言って、私たちはこれを人々に対して居丈高に振りかざし、他の人々の上に立って、彼らを威圧し、支配するようなことを決してせず、むしろ、主がそうされたように、僕として、己をむなしくして、この世の権威に服する。

パウロが殉教に向かったのは、異教の神々を信奉するローマ帝国内で、正しくない裁きが行われた場合であっても、この世の権威に逆らわず、それに服することで、十字架の死に赴かれたキリストにならうためであったろう。
 
今日の政治情勢下で、私たちが不当な裁きによって殉教を命じられるようなことはまずあり得ないことは幾度も述べたが、それでも、私たちには、日々、耐え忍ぶべき小さな十字架がある。

以下の御言葉は、信者に与えられた忠告ではあると同時に、幾分か、この世の人々との関係においても当てはまるものである。なぜなら、そこには,教会だけでなく、この世においても、私たちの権威や、栄光が、自分で自分を高く掲げることから来るのではなく、互いに自分をむなしくして、僕として仕え合うことから来るという原則が表れているためである。

自分一人だけが、他の人々に先んじて、知識を蓄え、他者を凌駕して、優位に立ったり、他者を圧倒するような力を身に着け、誰かを押しのけ、隅に追いやることで、栄光が得られるわけではない。

何度も言うように、被造物は、それ自体のために造られたのではなく、造った方を喜ばせるために存在しているのであって、その本来的な努めをまっとうするところにこそ、私たちの幸福がある。それにも関わらず、被造物同士が、互いに比べ合い、押しのけ合い、君臨し合い、凌駕し合い、優劣をつけ合うことによって、どんな栄光にもたどり着けるわけではないし、それによって自分の訴えの正しさや、優位性が認められて、他者に勝るリアリティを獲得できるわけでもない。
 
ただ私たちを選び、立てて下さった方からの承認だけが、私たちを生かす力なのであり、そして、その方に評価され、栄光を受けるための道は、十字架を通ることにしかない。ヨルダン川の川底に立ち、人々が安全に川を渡り終えるまで、契約の箱を支えて立つ、その仕事にしかない。

だから、己を低くして、互いに仕え合いなさい、とイエスは弟子たちに幾度も言われたのである。パウロも、信者が何か奥義的な知識を身に着けたとして、それを他の信者に対して吹聴することを戒めている。

そうして仕え合う関係は、信者が教会の人々に対して取るべき態度だけでなく、すべての人々に対して取るべき態度を表している。栄光は、人々に君臨し、圧倒し、支配することから来るのではなく、仕えることから来る。その原則は、いかなる場所においても、変わらない。主の御前で、主にならって、自分を低くする者が、高くされるのである。
   
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げられ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:1-11)



「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6)

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、 ただあなたの御名にのみ帰してください。」(詩編151:1)

「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。<略>
わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを超えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。

「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。」(二コリント10:12-17)

 とある用事を終えて人と別れ、東神奈川の駅に続く高架橋の階段を上った途端、ダイナミックな花火が始まった。大勢の人たちが足を止めて夜空を見上げ、スマホで撮影していた。筆者も足を止めて、ビルの合間から、夜空に万華鏡のように映し出される光景に見惚れた。週末に向けて、天からの思いがけない特別なプレゼントを受け取ったような気分である。

キリスト者の人生は、神とその人との共同の歩みであり、そこで起きる出来事に偶然はない。主はまことにすべての出来事を、信じる者のために絶妙なタイミングで計らって下さり、ご自分に聞き従う人たちのために、良い出来事も、悪い出来事も、何もかも最終的に益になるようにとりはからって下さる。
 
さて、今日のテーマは「顔を上げて主をまっすぐに見る」必要性である。

これまで筆者にとって、書類の束は、人生には欠かせない道連れのようであった。仕事でも、それ以外の場所でも、果てしない時間を、書類とのおつきあいに費やして来たのである。

しかし、このところ「書類から人へ」のシフトが起きつつある。

それが起き始めたのは、皮肉なことに、当ブログを巡る裁判の第一審の最中であった。

ちょうど約一年前、最初の期日に出廷した際のことは今でもよく覚えている。

その日、筆者は人生最初の裁判に臨むために、百ページを超える訴状を携えて、被告が出廷するよりもかなり前に、法廷に入って着席していた。それは筆者にとって初めて法廷を見る機会であったが、およそすべてが常識から外れたこの事件では、何もかもが通常通りではなかった。

遮蔽の措置を願い出ていた原告の席は、被告席とも、傍聴席とも、囲いで隔てられ、顔を合わせるのは裁判官のみであった。

書記官に案内されて、その衝立で囲まれた席に着席した後、筆者は表情をこわばらせたまま、机の上に訴状を置いて、開廷の時を待った。裁判官が法廷に入って来て着座したが、それでも被告はまだ来なかった。

非常に長く感じられる沈黙の数分間が過ぎたが、裁判官が、その間、まじまじと筆者を見つめているのが分かった。一体、このような非凡な事件を提起したのはどういう人間なのか、今、原告は何を考えているのか、心の中まで観察されているようであった。

法廷の主は、裁判官ただ一人であり、そこで裁判官の意思を妨げるものは何もない。

だが、被告と対面せずに審理を進める手続きが取られた時点で、裁判官は、筆者の危惧を真剣に受け止めてくれていることが分かっていたため、裁判官は決して筆者に悪意を持っておらず、筆者の敵でもない、ということは分かっていた。

そこで、裁判官から観察されていることは、筆者にとって、不快な印象ではなかったが、筆者はあえてそれに気づかないふりをして、緊張気味に、手元の訴状に視線を落とした。

それが、筆者と法廷との最初の出会いであったが、こうして人生最初の裁判の期日において、法廷に最初に登場して来たのが、裁判官であったこと、一審の最初から最後まで、筆者が対面したのも、裁判官と書記官だけであったというのは、何かしら非常に印象的かつ象徴的な出来事であった。

筆者は以前にも書いた。対面することは、知り合うことを意味し、関係性が深まって行くことを意味するのだと。この審理において、筆者は被告とは知り合わず、全世界に対して、自分を閉ざしていた代わりに、ただ一方向に向かってのみ、裁判所の人々に対してのみ、心を開いていた。

そのため、この審理の間に学んだことも、被告に対してどう答えるかということではなく、むしろ、裁判官の言動の一つ一つに注意を払うことの重要性であり、控訴するに当たっても、判決文を読んで、自分の主張の足りないところを学ぶことが必要となった。

裁判官の書いた判決と争うのではなく、それを読んで、自分の論理にどう足りない部分があったのかを学んだのである。
 
これは裁判というもの自体に対する筆者の見方を変えた。筆者はそれまで裁判とは、主に被告に反論するための場所だと考えていたが、実際には、裁判において注意を払うべき相手は、被告ではないこと、また、以前にも書いた通り、裁判官と心が通わないまま、被告との議論に誘い出されて行き、それに溺れることが、いかに重大な危険であるかを知らされた。

さらに、裁判官は決して筆者に言葉で注意を促したことはなかったが、筆者が裁判官の話している最中に気もそぞろであったり、うつむいたり、わき見していたりすると、やや苛立たし気に、自分に注意を向けるよう、暗黙のうちに促していたように思われた。

そうして裁判官に注意を向けることには、ただ裁判の進行から目を離さないとか、自分に有利な結果を得たいがために、裁判官の心を自分に向けさせるといった目的とは異なる、より深い意味があったように思う。

なぜなら、その頃、筆者の勤めていた会社でも、上司がさかんに同じようなことを筆者に求めていたからである。

その当時の筆者に必要なのは、自分を生かし、解放することのできる権威者から、片時も目を離さず、その人間のそばを離れず、その陰に隠れ、一人で危険や死へ赴かないために、絶えずその人間に注意を注ぎ続けることであったように思う。

それまで何事も自分で判断し、自分で決断して歩み続けて来て、それに不足はないと考えていた筆者にとって、それは新しい学びであった。

とはいえ、それは裁判官や、あるいは上司の判断を鵜呑みにして、自分自身では何も判断しないということとは異なる。他者へ依存することをも意味しない。それだからこそ、判決を得ても、筆者の判断で、審理はまだ続いているのである。

とにもかくにも、このようにして、筆者が書き上げて来た膨大な書面に、注意深く耳を傾ける者が現れ、権威を持って事件を裁く者が現れたおかげで、筆者の作り上げた書面は、一方通行ではなくなり、裁判をきっかけに、筆者の注意は、「書類から人間へ」シフトし始めた。

当初は高みから筆者を観察していた裁判官は、次に筆者のそばへやって来て、同じ目線で語り合い、やがて筆者の眼差しをとらえ、筆者の関心をとらえた。

そうして、筆者が果てしない時を費やして積み上げて来た膨大な書類に生きた光が当てられ、それに見えない承認印が押され、現実に大きな変化をもたらす効果的な宣言が下された。だが、そのように解放的な宣言を受けたこと以上に、筆者は、不思議な「干潟」に働く作用に何より心を奪われたのであった。

だからこそ、筆者は一審が終わった後も、このフィールドに尽きせぬ関心を寄せて、そこにとどまり続けて、そこから、自分だけでなく、他者のためにも、不思議なエネルギーを汲み出す方法を開発しているのである。

ところで、「顔と顔を合わせて『知り合う』」ということは、ただ面識が出来て互いが何者であるかを知ること以上の意味がある。

聖書において、キリストと人とが顔を合わせるのは、人の贖いの完成の瞬間のことであり、顔と顔を合わせた者は、似た者同士になる。

「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(二コリント3:15-18)


これまで当ブログでは、聖書をさかさまにした偽りの悪魔的教えであるグノーシス主義の構造の分析に、多くの紙面を費やしてきたが、「鏡」とは、グノーシス主義において、極めて重要なシンボルとして利用されていることをも示した。

グノーシス主義における「鏡」とは、弱い者が、強い者の性質を盗み取る(簒奪する)ために使うトリックである。

映画"MISHIMA"の分析シリーズでそのことはすでに示したので、詳しく繰り返さないが、「神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から③」などを読んでいただければ、そのトリックがよく分かるものと思う。

グノーシス主義においては、被造物は「神々」であり、そこには無限のヒエラルキーがあり、その頂点に君臨する至高神とされている「神」は、「鏡」にたとえられる。
 
グノーシス主義では、神を「鏡」にたとえることにより、神があたかも被造物によって「見られる存在」、「知られる存在」(=対象)であるかのように置き換え(貶め)、被造物の誕生は、神が造物主として自らの意思で被造物を創造したことによるのではなく、至高神という「鏡」に、神の意思とは関係なく、神の姿が似像(映像)として乱反射するように映し出されることによって、そこに映し出された映像が、「存在の流出」として、「神々」すなわち被造物を誕生させたのだという。

このような概念の「鏡」は、神の概念を骨抜きにするものであり、被造物が何らかの方法で神を盗撮することにより、神の意思とは関係なく、神の聖なる性質を盗み取って、自己を栄光化したと言った方が良く、聖書における創造とは正反対である。

上記のコリント人への手紙を読めば、聖書において「鏡」とは、神ではなく、むしろ、被造物を指していることが分かるはずである。
 
鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」というフレーズによく表れているように、私たち信じる者たち一人一人が、神の栄光を、鏡のように映し出すことにより、主の似姿に変えられて行く存在なのである。

つまり、神が被造物の栄光を映し出す「鏡」なのではなく、被造物である私たち人間こそが、神の栄光を反映するための鏡なのである。だから、グノーシス主義はこの点で、聖書とはさかさまであり、神と被造物との関係性を逆転させていることがはっきり分かる。

さて、神と人との関係は、どこまで行っても、神は「知る者」であり、人間は「知られる者」であるという秩序から出ることはない。とはいえ、神と人とが対面して知り合うことによって、むなしい鏡に過ぎない被造物に、神の聖なる性質が光のように反映するのである。

このことは、人間が宮であり、神殿として創造されたことと密接な関係がある。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(一コリント3:16-17)

人間は誰であれ、信仰の有無に関わらず、神を迎えるための宮として造られている。神に見捨てられ、神が不在となった宮は、単なる空っぽな入れ物に過ぎず、何の価値も持たず、聖なる場所でもない。

神が不在である宮は、灯りをともされない真っ暗な建物にもよく似て、そこに光が当てられない限り、どんな機能があって、どんな構造になっているのか、誰にも分からない。しかも、宮として造られた建物は、通常の住居としても使えないので、どんな優れた装飾が施されていようと、神がやって来られて使用されなければ、何の役にも立たない無用の長物でしかない。

同じように、鏡は、映し出すべき対象がなければ、誰に対しても役目を果たさない。そのことは、私たち人間が、自己の力では、自分を知ることさえできないことをよく表している。

私たち被造物という「鏡」には、私たちが目にするもの、心に注意を向けるものが映し出される。

だが、その「鏡」に映し出されるのは、誰なのか、何なのか。この世の移ろいゆく事象か、自分自身の思いか、それとも、サタンの姿なのか、神の姿なのか・・・。

私たち自身が誰に目を向け、何に心を留めるかによって、私たちが心の鏡に映し出す映像が変わる。だが、その映像の如何によっては、その鏡は、ナルシスが覗き込んだ水面のように、「虚無の深淵」となって、私たち自身を吸い込んで終わるだろう。

なぜなら、鏡それ自体には、何も創造する力もなければ、自力で映し出すべき対象を見つけることもできず、映し出した対象に命を与えることもできないからだ。ただ鏡の持ち主がやって来て、自分の姿をそこに移し出すとき、初めて、鏡の役割が全うされるのである。

そのことは、被造物それ自体は、罪に堕落した瞬間から、滅びに定められ、虚無に服しているため、被造物の栄光は、ただお一人の神に目を向けることからしかやって来ず、人間は、自分では何も生きたものを生むことのできない虚無であることをよく物語っている。

人間の知識は、無限の鏡と、そこに映し出された果てしない自己の映像の中を生き巡っているだけで、どんなに鏡の中に自己の姿を映し出しても、そこから真実は見えて来ず、永遠の堂々巡りというトートロジーに陥るだけである。
 
そこから解放される手段は、私たちのまことの主であるただお一人の、生きておられる神に目を向けることだけである。

モーセの書は、何も映し出さない鏡のようなものである。それは、筆者が書き上げた膨大な訴状や、準備書面にも似て、そこには、意味のない事柄が書き連ねられているわけではないが、事件を裁く者が誰もいなければ、それは誰からも認定されることのない、正しいのかどうかも分からない、命が与えられることもない、一方的な主張に過ぎない。

モーセの書は、人間の違反を宣告するものであり、人間には自力で神の聖に到達する手段がないことを告げ知らせるだけの、人を生かす力のない「死んだ文字」である。その書のどこを探しても、終わりなき善悪の議論が展開しているだけで、そこから人間を救い出し、人にまことの命を与えるために、キリストが来られる必要があったのである。

第一審の開始当初、筆者の鏡には、まだ自分のモーセの書しか映し出されるものはなかったが、裁き主はすでに登場していた。

筆者はこの審理の最中、自分の心の鏡に「被告(ここでは象徴的にサタンとする)」を映し出すことをやめねばならないことに気づかされた。対面せずとも、心の鏡に映し出された対象と、筆者は向き合っているのと同じだからである。
 
そこで筆者は、自分の心の鏡には、真に価値あるものしか映してはいけないということに徐々に気づかされた。映し出された者と、筆者とは、鏡を通して「知り合う」こととなり、その鏡を通して、映し出された者の性質が、筆者に命として分け与えられる。
 
それは簒奪によるのではない、善意と自由意志と責務に基づく真実な分与である。

もしも筆者よりも弱い者が、鏡を使って筆者の映像を盗み取ろうとするならば、筆者はそれによって力を奪われ、卑しめられるであろう。しかし、筆者よりも強い者が、筆者を解放するためにやって来て、その鏡に自分の姿を映し出すならば、それによって、その者の強さが、筆者に分与されるのである。
 
不思議なことに、判決を通して、裁判官の持っていた性質が、幾分か、筆者にも付与された。裁判官の書いてくれた判決は、筆者に法的な世界へ扉を開いてくれる目に見えない紹介状となり、その紹介状を持って、新たな場所へ向かったところ、利害の異なる、対立する人々の言い分をジャッジするという、裁判官の仕事にどこかしら似た、新たな任務が与えられた。

これが命の分与の結果であった。筆者は判決を通して、ただ自分が訴状において求めていた解放を幾分か得たというだけにとどまらず、裁判官から分与された目に見えない命を通して、裁判官の行っていた仕事の性質を、幾分か分け与えられたのである。

こんなことは、およそ信じがたい、ファンタジーのような話だと思われるのは結構である。幻想と言われようと、そうなったことは変わらない事実である。

筆者の心には、自分に解放的な宣言を与えてくれた人にならって、自分も他者に同じように解放を与えることのできる仕事をしたいという願いが生まれ、その願いに応じて行動した時、次なる出来事が起きたのである。
 
* * *

さて、ある日、仕事に従事している最中、同様の作業に従事する人たち全員に一人一枚の「抽選券」が配られた。

そこには、仕事の奥義を学びたい、とりわけ熱意あるえりすぐりの有志たちに向けて、ある学習会が提案されていた。

誰もが参加できるわけではないが、申し込みは誰でも可能だというので、筆者は浅はかにも、学習を積む良い機会だと思って、行列ができる前に、応募してみた。

ところが、その抽選は極めて当たる確率が低く、しかも、学習会は、建設中の「バベルの塔」の中で行われることが判明した。
 
申し込んだ後で、当選の条件も変更された。学習会へ招かれるためには、まずは分厚い学習書として、モーセの書を自費で購入した上、それに精通し、ピラトの階段をひざで上り、今いるよりも上層のヒエラルキーまで昇格せねばならないことが知らされた。

だが、モーセの書は高価で、通常の書店に売っていない上、分厚く、とてもではないが、その勉強は、学習会の開催に間に合いそうにもなかった。しかも、ピラトの階段は、人がようやく登れる程度の幅しかなく、大変な高所にあるため、登っている最中に落ちて死んだ人が後を絶たないのだという。

筆者はピラトの階段に挑戦しようとしたが、一段、登ろうと、上の段に手をかけた途端、背中のリュックに入れていたモーセの書が、途方もない重さになって体にのしかかり、思わずよろめいた。

その瞬間、筆者の後から階段を上って来ていた同僚の誰かが「大丈夫ですか?」と親切そうに声をかけ、手を差し出してくれたので、筆者がその手につかまろうとしたところ、その同僚は、筆者の手を思い切りつかんで、筆者を下に引きずりおろし、筆者を押しのけて、さっさと上段に登って行った。その際、聞こえよがしに「身の程知らず」とささやいて行った。

こうして、階段を上るどころか、早々にひきずりおろされた筆者は、学習会と書いた旗が、はるか階段の上方にひらめいているのを見て、これは何かしら人間を愚弄するとてつもない罠のような話だから、そのような提案には乗らない方が賢明だとようやく理解した。

さて、見学会を率いる隊長は、ピラトの階段どころか、断崖絶壁を膝でよじ上るのが趣味で、すでにいくつもの奥義的な知識を身に着け、誰よりも上層のヒエラルキーに到達しているという噂であった。その人自身が、「ラビ」と呼ばれ、まるで断崖絶壁のような性格であった。親切そうに、謙虚そうに振る舞ってはいたが、人を容易には寄せつけず、また、彼の後を追って、ピラトの階段を登って行く人たちは、みな彼と同じような性格の人たちばかりであった。

いつの間にか、筆者を笑顔で階段から蹴落とした誰かが、当選者になっているという話も聞こえて来た。

筆者は、少数精鋭の当選者の集団が、バベルの塔で開かれる特別な奥義的知識を得るための学習会に向けて出発した後で、彼らが捨てて行った抽選券を拾い上げてみた。すると、そこには、誰が書いたのか、赤文字で、「クーデター。盗んだ水は甘く、ひそかに食べるパンはうまい。高ぶりは倒れに先立つ。バビロンから遠ざかれ。塔の崩壊に巻き込まれるな」と書き込まれてあった。

その時、筆者のもとには、紹介状に形を変えた判決文があったので、それを見ると、そこには、「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだ。権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって。わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さの中に完全に発揮される。」との文章が書き加えられていた。

筆者はそれを見て、塔の見学は高ぶりへの道だったことに気づき、このような抽選には申し込んではならなかったのであり、行かなかったことも、幸いだったと知った。そして、今一度、偽りの知識をためこむ生活から離れ、手元にあるモーセの書から目を離し、まことの主人に向かって目を上げなければならないと気づいた。

バベルの塔とは、別名を善悪知識の塔と言い、そこには、人が獲得した知識の程度に応じて、無数のヒエラルキーがあることを示す、果てしのないピラトの階段が、まるで塔にからまるツタのように、周りをらせん状に取り巻いている。その上層部には、あらゆる学者、宗教学者、数々の「専門家」らが名を連ね、彼らには絶大な富と、栄光が約束されている。

だが、筆者は、その塔が人に約束している幸福を与えず、彼らの独占する知識が、人を解放にも導かないことを知っていた。筆者自身が、専門家という呼称がいかにむなしいものでしかないかを思い知らされて来たのである。

しかも、このヒエラルキーがよすがとしている知識とは、昔々、サタンがエデンの園で、蛇の形を取って人類の前に現れ、この知識を身に着ければ、あなたは神のようになれると嘘を吹き込んだ、偽りの知識に由来するものである。

それは人を高慢にする知識であり、それをサタンから伝授された日以来、人類は果てしなく天に至るまでの塔を建設し続け、ピラトの階段をひざでよじ登り続け、互いに分裂と争いを続けている。

だが、筆者に与えられたミッションは、他でもないバベルの塔建設や、ピラトの階段を上る最中に、不幸な目に遭った人たちを助けることにあり、そこで筆者の課題は、人を不幸に追いやるピラトの階段のヒエラルキーを承認するのではなく、かえって、そこから零れ落ちた人々を助けることにあった。

この塔がためこんでいる知識は、どこまで行っても、人間を生かさない、独りよがりの閉ざされた知識であり、その知識を追求する限り、その人の人生に、他者というものは、一人も現れて来ない。

どんな家庭を築こうと、どんなに友達を増やそうと、どれほどの権威を身に着けようと、その知識を追求する人間にとっては、すべての人間が競争者であるから、彼は徹底的に孤独であり、人を信頼することができないのである。

筆者は、目の前に置かれたモーセの書を見ながら、法廷で訴状を前に、緊張しつつ、裁判官に見つめられていた瞬間のことを思い出した。

その時、筆者を取り囲んでいた囲いは、筆者が八方塞がりの状況にあること、解放は、ただ裁判官だけから来ることを告げていた。

だが、その時、筆者はまだ目の前に置いていたモーセの書にすがりつくように、これを一心に見つめ、裁判官でさえも、筆者の人生に、まだ生きた人間として、受け入れられていたわけではなかった。

その書面は、筆者の精いっぱいの自己防衛の手段であり、他者に自分を理解してもらうための唯一の説明であったが、筆者はその頃、他者とは誰かということさえ分かっておらず、裁判官でさえ、きっとこのような事件は、理解できまいと、心の中で考えていたのであった。

そこで、筆者は、自分で自分を肯定するために作り上げた書面を、唯一の武装手段のように思い、それが他者から承認されることなくして、生きたものとならないという現実――それゆえの他者の重要性――を、まだ十分に分かっておらず、事件の解決は、自分の努力によるものであって、他者からの助けは要らないかのように考えていたのである。

モーセの書は、人間の目に、あたかも正しい知識や、身を守るための理論武装の方法を教えてくれる武具のように見える。それは知識による人間の自己防衛の手段である。

だが、それを手に入れるために、人はどれほど果てしない苦労を費やさねばならないだろうか。筆者も、自分なりの書面を作り上げるために、どれほどの月日を費やしたかを思い出すが、その時、目の前に置かれていた訴状は、今でもまだ筆者の人生に形を変えては現れている。

裁判官は、筆者の作り上げた書を隅から隅まで読み、何度もそれを読み返し、その作成の苦労を知りつつも、その後、時間をかけて、筆者がモーセの書から目を離し、そこから解放されるように仕向けた。

裁判官は、筆者の作成した命の通わない書物に光を当てて、これを蘇生させた上で、共同作品のような宣言を作り上げたが、最も重要なのは、そこに書かれていた理屈ではなかった。

重要なのは、筆者の命の通わない訴えに、他者が命を吹き込んだということなのである。それによって、筆者に新たなミッションが与えられ、裁判官の任務の重要な性質の一部が、筆者の人生に分与され、それまで一方の当事者の立場にしか立つことのできなかった筆者に、自分を離れて、物事を俯瞰する新たな視点が与えられた。

こうして、筆者が一方の当事者である自分の立場だけから、すべての物事を見、主張し、判断するという制約から解き放たれたことは、おそらく筆者の人生を根本的に変えてしまうほどの大きな転換であって、これから先、徐々に筆者を取り巻くすべての人間関係に波及していく絶大な効果を持つ出来事なのだろうと予想する。

さらに、それまでモーセの書の研究という果てしなく孤独な作業に従事していた筆者が、そこから解放されて、生きた関係性の中に入れられたのである。

何か大きな逆転現象が起き、筆者がピラトの階段から、訣別宣言を突きつけられたのを機に、筆者と入れ替わるように、それまでモーセの書になどほとんど縁もゆかりもなかったと思われる大勢の人々が、筆者を押しのけるようにして、その階段に殺到して行った。

筆者は未だ手元の書面から、完全に目を離したわけでなく、そこから完全に解放されたわけでもないが、それでも、モーセの書をよすがに生きる人生を離れ始めた。

筆者のためのまことの裁き主は、常に筆者のそばにいてくれ、筆者に目を注ぎ、筆者の訴えを精査して、筆者の苦労を隅々まで分かち合いながら、常に筆者のために、弁護人となってくれ、知恵を与えてくれると同時に、筆者に対し、自分自身から目を離し、主ご自身に目を向けるよう、いつも教えてくれている。

「わたしを見なさい。わたしこそが、あなたにとって道であり、真理であり、命なのです。あなたの思いをわたしにすべて分かち合いなさい。わたしこそが、あなたの知恵であり、豊かさであり、あなたのための解放であり、安息なのです。わたしを見なさい。」

筆者は以前に、女性とはなぜ絶えず愚痴ばかりをこぼし続けている存在なのだろうかと書いたことがあった。このようなことを言えば、フェミニストが早速、抗議して来るかも知れないが、女性の話す内容に耳を傾けてみれば、その8割から9割は、愚痴と不満から成り立っており、残りの1~2割が自慢話と他愛のない雑談である。

古来から、異教の宗教では、女性は命を生み出す者として、豊饒のシンボルとして扱われて来たが、筆者はそうは考えない。聖書的な観点から見れば、命は女性から始まるのではなく、あくまで男性から始まる。その性質は、あらゆる場所に波及しており、フェミニストは、女性は男性と対等であるべきと言うが、筆者から見れば、女性には、男性と対等であれるだけの資質が初めから備わっていない。女性の働きは、どこまで行っても、陰のようである。

とはいえ、女性がその弱さを男性に対して率直に打ち明けるならば、男性は大いに彼女をかばい、守るであろうし、己が力を誇示して優位に立とうとは考えず、むしろ、彼女を助けることを光栄に思うだろう。

ただし、どういうわけか、そういう結果になることは少ない。弱いにも関わらず、女性が男性に君臨し、支配するというケースは至る所で見られる。多くの家庭ではそうなっているらしい。だが、もしも筆者の見立てが正しく、女性が本質的に虚無であるとすれば、女性による支配は、決して功を奏することはないだろう。

それでも、例外的に、女性の中には、女性の抱える弱さの制約を超えて、男性と同じような働きを成し遂げる人々がいないわけではない。だが、その場合でも、女性の抱える制約は、男性に比べて、圧倒的に強い束縛となると筆者は考えている。それは社会の進歩が遅れているせいではなく、生来の特徴から来るものである。

もしもそうした制約から完全に逃れたいと思うならば、条件はただ一つ、神に直結し、キリストに結ばれることである。そうすれば、その人は性別に関係なく、この世のすべての人々を超越することになる。
  
だが、そうした場合を除き、筆者から見ると、女性とは、限界ある被造物の象徴のようである。女性の弱さと限界は、被造物が、造物主なくしては、虚無でしかないことをよく表している。従って、女性が絶え間なく口にし続けている愚痴と不満も、とどのつまり、「私は単独では虚無である」ということを述べているに過ぎない。そこで、この虚無の中をどんなに探しても、正しい答えは見つからない。
 
この話は、性別の問題を論じるために持ち出したものではないし、女性差別の観点から主張しているわけでもない。

筆者はただ、女性の弱さと限界は、神の助け手として造られた人類が、神の御前で抱えている弱さと限界を象徴的に表している、ということを述べているだけである。

男であろうと女であろうと、人類が神の御前でしたためた書面には、自己の弱さと、限界と、苦悩の跡と、愚痴と不満しか書かれていない。誰であれ、神の御前では、弱さ以外に主張するものはないからである。

だが、神は人間が切なる訴えを抱えて、ご自分の御前に進み出るとき、決してこれを軽く扱うことはされないし、もちろん、人間の弱さを嘲笑うこともされない。

神の御前で全被造物は虚無であり、神は私たちの弱さ、限界、それゆえの惨めさをよく知っておられる。徹底的に心の中を探られても、私たち自身の内には、いかなる善も見つからないことも、予め知っておられる。

しかし、神はキリストのゆえに、私たちのすべての訴えに承認印を押して下さり、私たちの泣き言にも、十分に耳を傾け、疲れ切った私たちに新しい力を与え、罪に堕落し虚無に服した被造物を、御子のゆえに、洗い清め、義とし、新たな命を与え、生かして下さる。

それだけでなく、弱く、限界ある、堕落した、朽ちゆく卑しい存在であったはずの人間を、神の栄光を受けて、これを反映させる新たな高貴な人へと造り変え、万物を御子と共に統治する権威者、天の無尽蔵の富を受け継ぐ御国の相続人へと引き上げて下さる。

そこで、神と人とはもはや対立し、支配し合う関係ではなくなり、どちらかと言えば、パートナーのようになる。あれほど人間が求めてやまなかった神の聖、神の義、贖いが、すでに恵みによって、信じる者には約束されており、幾分か、実現してさえいる。もはや人間は、見捨てられて、弱く、孤独で、卑しい、寄る辺ない、蔑まれるべき存在ではない。

とはいえ、それはあくまで神の側からの恵み(恩寵)によるのであって、この恵みを受けるためには、人間の側でも、自己の限界を率直に認め、その恵みを求め、受け入れる姿勢が必要となる。

人間が、自分に弱さはなく、限界もないと言い張り、自分は神の助けを受ける必要はないと、自分を取り繕い、自力で神に等しい存在になろうと自己を鍛え、学習を積んでいるうちは、神の恵みはその人に注がれることはないであろう。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」(ヨハネ15:16-17)

そこで、筆者は改めて、自己推薦によってえりすぐりの集団に属するのではなく、神の推薦によって選ばれる人になりたいと願う。神ご自身が、ご自分の尊い性質を、私たちに分け与えようと自ら願って下さり、私たちを引き上げて下さる瞬間を待ちたいと思う。自力でピラトの階段を這い上り、自ら神の聖に到達しようとして、そこから転落して不幸になる道は御免である。

そこで、誰にも安息を与えることなく、高ぶりだけをもたらす偽りのヒエラルキーには背を向け、人の目に尊ばれるのでなく、恵みによって、神に選ばれ、生ける石となる道を行くことこそ、最高の安全策であることを思う。

そういうわけで、実に緩慢な変化であるとはいえ、筆者は手元の書類から徐々に目を離し始めた。書類は、これまで筆者にとって唯一の救命ボートのように見えており、武装手段でもあったが、力強い援護者が現れた以上、もはやそれにしがみつく価値はなくなったのである。

このことは、筆者が今後、訴訟を起こすことはないとか、書面を作成することはないという意味ではない。だが、モーセの書は高価な上、あまりにも重すぎて抱えきれず、救命道具どころか、大変な重荷となって、筆者の前進を阻んで来た。
 
ピラトの階段に別れを告げると、いつの間にか、主が筆者のそばにやって来て、筆者の手からこの重荷を取り上げ、代わりに持ち運んでくれるようになったのである。

今や筆者の人生には、様々な人々がやって来て、「あなたがこのような荷物を運ぶ必要はありません。私に任せなさい」と言って、筆者の手から重荷を取り上げて行く。そうでなければ、その重荷がまるで貴重な宝であるかのように、率先してそれを筆者から奪い取って行く人たちが現れる。
 
これは不思議な現象である。これまでの筆者は何でも自分でやってみたいと考え、挑戦するのが好きであり、苦労を苦労とも考えていなかったので、自分から断崖絶壁を登っていたのであり、その際、重荷を持ち運んでいるという自覚すらもなかったが、確かに、考えてみれば、このような重すぎる書物を自力で持ち運ぼうとすることは、それ自体が「身の程知らず」な行為だったと言える。

そういう意味で、バベルの塔へと続くピラトの階段の最初の一段目で、筆者が階段側から拒否されてこの道を離れたことは、まことに正しい結果だったと言えよう。それはまさに人にとって負い切れない重荷を担う苦行にしかならないからである。

今でも、目に見える地上の多くの教会には、まるで標語のように、以下の聖句が掲げられているが、筆者は、これを標語としてではなく、真実として受け止め、重荷を主に任せ、神によりかかって、安らぎのうちに歩きたいと願う。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)
  
この道は、筆者が始めたものではなく、神ご自身が始められ、筆者を任命されたものであるから、その行程を歩き通す力も、筆者自身に由来するのではなく、神が与えて下さるものでなくてはいけない。イザヤ書(40:25-31)にはこうある。

「お前たちはわたしを誰に似せ
 誰に比べようとするのか、
 と聖なる神は言われる。 

  目を高く上げ、
 誰が天の万象を創造したかを見よ。

 それらを数えて、引き出された方
 それぞれの名を呼ばれる方の
 力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。

 ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、
 歩いても疲れない。」

筆者に与えられた新たなミッションは、鳥のように天高く舞い上がり、そこから、地上のすべてを俯瞰するというものである。バベルの塔がどんなに高くとも、その高度はさらにそれを上回る。

筆者は天的な法廷に招かれ、そこで安全な囲いの中に入れられ、正しい裁きを宣告された。筆者の訴えは忘れられておらず、神ご自身が、筆者に正しい訴えを提起するための知恵を授けられたのである。
 
このように、神の側には、常に信じる者がすべての出来事に対処するに十分な備えがあり、神はへりくだった方であるから、へりくだった人を助けて下さる。そして、神は弱い人間を助けることを、心から光栄に思って下さる。人間が神の助け手として造られたにも関わらず、神は喜んで私たちを助けて下さり、またそうしたいと常に願って下さる。

だから、何事も主に相談し、すべての重荷を神ご自身と分かち合い、主に委ねよう。そうして、主と共に進むならば、私たちの荷は軽くされる。そして、自己の生来の限界と弱さにも関わらず、私たちは疲れることなく、立ち止まることもなく、常に軽い足取りで、心に喜びを絶やさず前進して行くことができるだろう。

走っても弱らず、歩いても疲れないだけでなく、翼をかって天高く舞い昇り、この世のすべてを天的な高度から見下ろし、平安のうちに統べ治めることができる。



悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。
 
 主に信頼し、正義を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。

 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
 繁栄の道を行く者や
 悪だくみをする者のことでいら立つな。
 怒りを解き、憤りを捨てよ。
 自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。
 
 悪事を謀る者は断たれ
 主に望みをおく人は、地を継ぐ。
 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。
 彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。

 貧しい人は地を継ぎ
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。
 
 主に従う人に向かって
 主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
 主は彼を笑われる。
 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。

 主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り
 貧しい人、乏しい人を倒そうとし
 まっすぐに歩む人を屠ろうとするが
 その剣はかえって自分の胸を貫き
 弓は折れるであろう。

 主に従う人が持っている物は僅かでも
 主に逆らう者、権力のある者の富にまさる。

 主は御自分に逆らう者の腕を折り
 従う人を支えてくださる。
 無垢な人の生涯を
 主は知っていてくださる。
 彼らはとこしえに嗣業を持つであろう。
 
 災いがふりかかっても、うろたえることなく
 飢饉が起こっても飽き足りていられる。
 しかし、主に逆らい敵対する者は必ず滅びる。
 捧げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。

 主に逆らう者は、借りたものも返さない。
 主に従う人は憐れんで施す。
 神の祝福を受けた人は地を継ぐ。
 神の呪いを受けた者は断たれる。

 主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる。
 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
 主がその手をとらえていてくださる。

 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない
 主に従う人が捨てられ
 子孫がパンを乞うのを。
 生涯、憐れんで貸し与えた人には
 祝福がその子孫に及ぶ。
 悪を避け、善を行えば
 とこしえに、住み続けることができる。

 主は正義を愛される。

 主の慈しみに生きる人を見捨てることなく
 とこしえに見守り
 主に逆らう者の子孫を断たれる。
 主に従う人は地を継ぎ
 いつまでも、そこに住み続ける。

 主に従う人は、口に知恵の言葉があり
 その舌は正義を語る。
 神の教えを心に抱き
 よろめくことなく歩む。

 主に逆らう者は待ち構えて
 主に従う人を殺そうとする。
 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。

 主に逆らう者が横暴を極め
 野生の木のように勢いよくはびこるのを
 わたしは見た。
 しかし、時がたてば彼は消えうせ
 探しても、見いだすことはできないであろう。

 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
 平和な人には未来がある。
 背く者はことごとく滅ぼされ
 主に逆らう者の未来は断たれる。
 
 主に従う人の救いは主のもとから来る
 災いがふりかかるとき
 砦となってくださる方のもとから。
 主は彼を助け、逃れさせてくださる。
 主に逆らう者から逃れさせてくださる。
 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」(詩編第37編)

* * *

さて、以前にも、なぜ使徒行伝には、使徒たちの殉教の場面が書かれていないのかということについて書いた。

本来ならば、使徒たちの殉教は、信仰の道を貫くためのクライマックスであるから、物語としては、これが描かれていた方が、ドラマチックで完成しているように見える。

それに引き換え、現存の聖書66巻に含められている使徒行伝では、使徒の殉教は随所で示唆されてはいるものの、実際にその場面の描写はなく、むしろ、使徒たちおよびクリスチャンが迫害に耐え抜いて、信仰を宣べ伝え、各地の教会が紆余曲折を経ながら成長して行く過程が重点的に描写されている。

使徒行伝の締めくくりにはこうある、「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒行伝録28:30)

ここには、パウロがいずれ殉教するのだという悲壮感は全くない。むしろ、神の国を告げる福音が拡大して行き、これからエクレシアは完成へ向かって行くのだという期待感が感じられる。

これは中途半端とも見えるような、未完成を思わせる終わり方である。花嫁エクレシアはまだ幼く、婚礼の支度にも入っていないが、もっと後になれば、物語のクライマックスがやって来る。しかし、それはこの時代にはまだ起きていない事柄であるから、描かれていないだけであって、真に重要な出来事は、これから始まる、まさにあなたたちの生きる時代に起きるのですよ・・・、とでも言いたげな期待感を込めたニュアンスが伝わって来るように思う。

つまり、使徒行伝は終わっておらず、今日の時代までずっとこの物語は続いていているのであり、パウロの生活から、一歩、前へ足を踏み出せば、そこに私たちの時代があって、私たちもその続きを生きているのだ、と言いたげな終わり方に感じられる。

とにもかくにも、エクレシアが完成に向かうというテーマに比べると、使徒たちが殉教して生涯を終えるということは、取るに足りない事であるかのように扱われているような気がしてならない。

さらに、使徒たちの殉教の描写が聖書にないのは、それがローマ帝国という多神教の異教的世界観を土台とした政治状況の中で起きた出来事だからこそであると、筆者はかつて書いた。

もしも使徒行伝の中に使徒たちの殉教の場面が描かれていたならば、おそらく、それを読んだ後世の人々は、彼らの生涯の終わりを模範のように考えるようになり、信者は誰しもそのようにして、時の政治権力と対立関係に陥り、迫害されて、非業の死を遂げるのが理想だとさえ考えるようになるだろう。

しかし、聖書はもともと人類の罪を贖うためのキリストの死と復活を中心に据えており、最初から最後まで、被造物の代表・初穂として贖われ、ただ一人神の目にかなう「完成された人」であるキリストについて語っているのであり、政治問題には全く主眼を置いていない。時の政権による信仰に対する迫害というテーマは、聖書のメインテーマから外れている。さらに、聖書はこの世において立てられた権威に逆らうようにとは信者に全く教えていない。従って、聖書は、信者を政権に対して刃向かうように、政治闘争へ赴くように焚き付けることを全く目的としていない。

しかも、使徒たちの殉教は、ローマ帝国が多神教の神話を建国の理念とし、キリスト教を公認していなかった時代という、一定の政治・時代状況を背景にしてこそ、起き得たものなのであって、今日の民主主義に基づく政治体制において、同様の現象が再び、繰り返されうるかと考えれば、それは(独裁体制やら共産主義国などの特殊な政治形態を除き)考えにくい。

そこで、そのように特殊な政治状況、時代状況のもとにしか起き得ない現象を、あたかも普遍的な事象(もしくは信者のあるべき模範)であるかのように描くという混乱が起きないために、また、キリスト教徒を政治権力との無用な対立関係に陥らせたり、使徒を迫害したこの世の政治権力に対する反感をいたずらに信者たちに抱かせるという結果が起きないよう、あえて聖書には、使徒たちの殉教の描写が省かれているのではないかと筆者は考えるのである。
 
ところで、「ルカによる福音書」と「使徒行伝」はともに同じ著者による二巻の書物であるが、どちらもが、パウロの死後十数年以上が経過してから書かれたものであるとみなされている。つまり、使徒行伝は、パウロの殉教後に書かれたものであって、まだ事件が起きていなかったために、この書物にパウロの殉教の描写がないというわけでは決してない。

さらに、パウロの殉教後に書かれている以上、これらの2つのルカによる書物が、パウロが裁判において有利な結果を得られるよう援護射撃として書かれたとみなす理由は存在しない。

ルカの2巻の書物が目的としているのは、パウロの運命を左右するために何らかの手立てを講じることではなく、あくまでキリストがどのような方であるかを宣べ伝えることにある。
 
さらに、パウロが上訴したカエサルとは、今日、キリスト教徒の迫害者として知られている悪名高い皇帝ネロである。その時代、ネロはまだキリスト教徒に対する大迫害に及んでいなかったが、パウロがカエサルに上訴したことによって、裁判において有利な立場に立ったとか、勝訴判決を得たといった記述は、聖書の中では全く見受けられない。

パウロがネロに上訴したことによって、いかなる結果が起きたのか、また、パウロが殉教に至った理由と、パウロがそれまでに受けた裁判との間にどのような関連性があるのか、具体的なことは不明である。

とはいえ、パウロは皇帝ネロの命により、斬首されて処刑されたとも言われている。パウロの殉教は、暴徒による襲撃などの結果ではなく、為政者から有罪とみなされたがゆえの処刑であったことは、ほぼ定説である。

このように、パウロがキリストの復活の命にあずかり、神からの力強い義認を受けていたにも関わらず、なぜ異教的世界観の支配するこの世の不正な裁判によって罰せられたり、不正な君主によって死をもって処罰されるようなことが起き得たのかという問題は、聖書では取り上げられていない。このことは他の聖書箇所と対比して、大いなるパラドックスに見えるかも知れない。

なぜなら、もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:31-34)

というあの力強い神の義認に関する宣言は、他ならぬパウロ自身の記述だからである。このように書いたパウロが、ユダヤ人からの讒言に基づき、裁判で有罪を宣告されるか、もしくは皇帝から不当な判決を受けて処刑されたりするようなことがどうして起き得ようか。

聖書はこのパラドックスを説明していないが、筆者の目から見ると、それはやはり、ギリシア・ローマ神話の多神教の世界観に基づくローマ帝国という特殊な政治・時代背景と関係があるように感じられる。つまり、パウロの殉教という出来事は、異教的な世界の中で、その時代状況に限定して起きた出来事だったからこそ、聖書はあえてパウロの殉教を「キリスト者の模範」のように描くことなく、むしろ、「例外」のごとく扱い、パラドックスとして説明することもなく、通り過ごしているように思えてならないのである。

確かに、聖書には多くの殉教者が存在することが記されている。殉教そのものは、キリスト教徒の召しの中で非常に重い価値のあるものである。ステパノの殉教の時と同じように、使徒たちの殉教が土台となればこそ、その後、福音の広がりがあり、ローマ帝国へのキリスト教の浸透という出来事も起きたのであろうと見られる。今日我々が享受している信教の自由も、そうした犠牲の上に獲得された権利であると言えるかも知れない。

しかしながら、使徒たちの殉教は、教会の最初の礎が築かれたことを意味しているに過ぎず、今日のキリスト教徒が、パウロや、他の使徒たちと同じ政治状況に生きていないのに、彼らと同じように、時の政権からの迫害と受難の末、殉教すべきであるという定式のようなものは、決して存在しないと筆者は見ている。

むしろ、今日の「殉教」のスタイルは様々であり、「日々の殉教」というものもありうるし、何よりも、信者が殉教を目的化して、自ら死を目指すようなことを、聖書は全く教えていない。特殊な政治情勢下における迫害が起きた場合を除いて、今日のキリスト教徒のために、神は死ではなく命を、罪定めではなく、小羊の血潮に基づく潔白を、圧迫ではなく、むしろ、大いなる自由を与えて下さり、主により頼んで生きるすべての人々に対し、様々な苦難はあれど、神は最終的には、冒頭に挙げたダビデの詩編のごとく、

「あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。」

主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。

と記された通り、主により頼む信仰者が、不当な濡れ衣を着せられて恥をこうむり、罪に定められるようなことが決してないよう、キリストの義がそれにあずかる者にもたらす絶大な効果を、クリスチャンのみならず、この世の人々の前でも、真昼の光のように輝かせ、私たち信じる者を悪人たちによる謀略や、あらゆる虚偽の訴えから、守って下さるものと筆者は確信している。

だから、筆者自身も、真に信仰により頼んで生きるキリスト者が不当な判決を得て有罪に終わることなど全くあり得ないこととみなしており、

「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。」

「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。」

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」


とのパウロの宣言を文字通り、心に確信している。パウロに起きた出来事は、あくまでローマ帝国でキリスト教が国教化される前の、帝国内にキリスト教が浸透しつつあり、教会が生まれたばかりで成長し始めていたその困難な状況の中で起きた出来事であり、今日の一人一人のクリスチャンがそれを模範や理想として生きるために起きた出来事ではないのである。

だから、我々が心がけるべきは、あらゆる理不尽な出来事が降りかかるように思われる時にも、虚偽の訴えや、謀略によって追い詰められるような時にも、心真直ぐに主を信頼し、神がふさわしい解決を与えて下さり、信じる者を義として下さることにいささかも疑いを抱かないで、憤りを捨て、心騒がせず、平安の中に座すことであろうと考えるのである。
 
「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
 平和な人には未来がある。
 背く者はことごとく滅ぼされ
 主に逆らう者の未来は断たれる。
 
 主に従う人の救いは主のもとから来る
 災いがふりかかるとき
 砦となってくださる方のもとから。
 主は彼を助け、逃れさせてくださる。
 主に逆らう者から逃れさせてくださる。
 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」

* * *

ところで、一旦、御言葉による確信に立ったならば、恐れや、不安や、疑いを抱かないことは重要である。なぜなら、これまでにも幾度も書いた通り、キリスト者にあっては、彼の霊の内側で起きることが、周囲の環境にそのまま影響するからである(霊的命が環境を創造する)。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37)
 
イエスが言及された「生ける水の川」とは、御霊であり、復活の命であるキリストの霊の只中から生まれて来る命の流れであり、天的な秩序のことでもある。

 信仰によって、不正のあるところに正義をもたらし、嘘の只中に真実をもたらし、弱く貧し人たちを豊かさへと導き、悲しむ者に慰めを、とらわれ人を自由にすることのできる、天的な秩序をこの地に引き下ろすことのできる、清く純粋な命の泉は、信じる者の霊の内側にある。

その清い命の流れは、人の霊の内、心の只中から湧き出て来る。その流れを絶やさないようにし、周囲を潤すことのできる、清い心の泉を枯れさせないよう守るためには、信者が神と自分の心との間に、さえぎるものを置かないようにすることが重要である(それが無垢であることの意味である)。

我々の生活の中では、理不尽だと感じられる出来事は、絶え間なく起こる。それによって、心を曇らせ、霊を圧迫されて、命の流れをせき止めてしまうと、私たちの働きは止む。

様々な疑念、不満、悩み、理不尽であるという憤りなどが、どんどん心をにため込まれて行くと、それはやがてバリケードのようにうず高く積みあがり、命の流れを完全に塞いで、せき止めてしまう。

キリスト者の霊の内側から流れ出す命の流れは、その人の心が信仰によって抱く喜び、愛情、希望、信念等と密接な関係があり、心が重荷で塞がれて、意気阻喪していたり、憤りに満ちているときに、開放的な命の流れを生み出すことはできない。

だから、信者は絶え間なく、新しい創造を行って、大胆に主の御業の中を生きるためには、心に去来する様々な重荷や圧迫を手放し、投げ捨て、自分自身の霊(むろん心も)の状態を常に明朗に、清く、軽快に、開放的に保っておくことが必要なのである。

それは決して、ポジティブ・シンキングのような心のコントロールを意味するものではないし、あるいは、不当な状況の只中に置かれても、笑ってなすがままになれという意味ではないし、理不尽な出来事を、理不尽であると感じて憤ってもならず、そのように主張してもいけないという意味ではない。

以前にも書いた通り、理不尽な状況は理不尽であると主張して構わないのである。ただし、状況の理不尽さを打ち破るための最大の秘訣は、憤って自分で誰かに報復したりすることにはなく、ただまっすぐに主の救いを信頼し、これを砦とし、糧とし、よすがとして、喜びを持って歩み続ける信仰の姿勢を捨てないことにある。

だから、心を憤りでいっぱいにしてはならないのである。

私たちの心は、被告であるサタンに対して開かれていたのではいけない。しかし、憤りを持ち続けると、やがてそれは報復願望や、悪事の企みへとつながって行き、悪魔に対して心を開くことにつながりかねない。

だから、私たちは、理不尽な状況に遭遇したとき、敵対者に対する憤りを心に抱き続けるのではなく、むしろ、まことの裁き主である神に直接、その事件を訴え、私たちの力強い弁護者でもあ神に自分の言い分を聞いていただき、主が自らの言い分を私たちに向かって述べて下さるときを待ち望むべきなのである。

そうして、理不尽と見える様々な状況の中に置かれたときにも、その状況の理不尽さだけに目を留めることなく、むしろ、その状況の中に、神の御手が働いており、その状況さえも、私たちが自分の心を治める上で、必要不可欠な訓練として与えられているものであって、私たちがその訓練において学ぶべきことを真に習得しさえすれば、その状況は、早急に取り除かれることを思うべきなのである。

神が信者のために正しい裁きを輝かせて下さるのは、私たちがそれを理解した後の瞬間のことである。つまり、私たちは今この時代に、使徒たちのように殉教して命を捨てることを自ら願う必要はないにしても、「日々の殉教」は否が応にも与えられる。

私たちにとって、理不尽かつ苦難と感じられる出来事は日々起きて来る。その中には、私たちの感情を揺さぶり、圧迫し、怒りを抱かせるような、相当に困難と感じられる出来事も含まれているであろうが、すべての状況には意味があり、それも神の深い采配の下に与えられているのであって、信者がいかなる状況においても、主を信頼して心騒がせず、勝利の確信に立って、揺るがされない方法を学びさえすれば、信者を取り巻く状況は、劇的に改善する。

悪の軍勢はカルバリで打ち破られているため、本当は、私たちを取り巻く状況が真実なのではなく、私たちが何を信じるのかにすべてがかかっているのである。だから、私たちは自分の外で嵐のような出来事が荒れ狂う瞬間にも、心を穏やかに保ち、勝利はすでに主にあって取られているという確信に常に立てるようにならなければならない。それができるようになれば、状況はもはや信者の心に触れなくなり、悪しき様々な問題には終止符が打たれる。

すべての試練、困難な状況は、信じる者が、自分で自分の心を守り、そこから湧き出る価値ある命の流れを絶やさず、いかなる状況においても、注意を逸らされずに、自分のミッションを果たし続けることを学ぶためにこそ、与えられているものなのである。

だから、神に対して心を開き、その御言葉に従い、サタンの言い分には心を閉ざし、これを退けなさい。あなたの心を、敵の蒔く様々な悪しき思いから守り抜き、喜びを絶やさないで目的へ向かって進む方法をできるだけ早いうちに学びなさい。
 
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4:23)



「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。

あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカ22:24-30)


訴訟の判決が、出口のない堂々巡りのような問題に、待ち望まれていた新たな脱出口を与え、紛争当事者だけでなく、社会のあり方までも変えることが分かって以来、筆者は、裁判所という不思議な場所に魅了されてしまった。そこから、汲めども汲めども尽きることなく流れて来る命の泉のような流れに、日々、何かの形で関わりたい、もしくは、関わることができないかと願っている。

身近で日々、法律関係、裁判関係の用語を見聞きすることができるのは、筆者にとっては、まさに、演奏家が毎日、様々な楽曲の音色に耳を傾け、楽譜をめくっているような具合で、幸いである。

筆者の夢は、この地に召されてやって来たときから、いつかここから、生ける水の川々が尽きせぬ洪水のような流れとなって溢れ、流れ出ることにある。

これがいわば、筆者に与えられた「開拓伝道」である。これを馬鹿らしいファンタジーを語っていると笑いたい人がいれば、それはそれで結構である。

筆者の住んでいる県の名前は、全国で唯一、神の名がつけられている都道府県であるが、長年、命の川どころか、荒野しか見当たらない中で、敵の襲来や、かんばつに脅かされ、一体、初めに与えられたビジョンが、いつどういう形で実現するのか、分からない月日がずっと続いた。

もはや筆者に何かの召しがあったことさえ、人々はもちろん、筆者自身さえも忘れ去ろうとしていた頃、筆者は、裁判所という不思議な「干潟」を見つけ、そこから不思議な命の流れが湧き出ていることを発見した。

霊的大干ばつの最中のことである。裁判所には、人々が目を背け、耳を塞ぎ、足早に通り過ぎて行きたくなるような、こじれた訴えばかりが送りつけられ、うず高く積まれていた。それはまるで見栄えのしないヘドロや泥水ばかりがたまった何の役にも立たない「干潟」のようである。

筆者自身が、誰も見向きもしない訴えを抱えてそこにたどり着いた。その時は、誰一人として筆者を応援する者もなかった。しかし、筆者はそこに正しい裁きが存在するという噂を聞きつけ、最後の望みを持ってそこにたどり着いたのである。

やはり、噂は嘘ではなかった。その「干潟」にたどりつくと、そこにたまった「あぶく」の一つ一つに、不思議な光が当てられ、光合成が働き、それが神秘的な作用により、新たな命を生み出すエネルギー資源へと変えられていることが分かった。

干潟は単に水が腐った無用な地帯ではなく、そこには人手によらず、太古から続けられて来た途方もなく不思議な天然のエネルギー資源の循環があった・・・。そこで、筆者も自分の訴えに順番が回って来て、光が当てられるのを待った。実際に、その結果としてどういう現象が起きるのかを知ってから、この不思議な「干潟」に魅了されて、そのそばを離れられなくなったのである。

裁判所が扱う訴えの範囲は、とどまるところを知らない。たとえば、筆者は我が国に、行政職員を罷免する制度がないのは、本当に異常であると感じている。本来ならば、国家公務員に対して、国民は罷免権を持っているはずだが、行政の職員に対してはそれはない。

筆者は我が国で国家・地方公務員と呼ばれている人々は、憲法上定められた公務員の定義から外れており、これは戦前の遺物としての「官吏」の残存物のような、不明な位置づけにある集団だという考えを、他の人々の主張を踏まえ、提示して来たが、罷免権がないという意味でも、その考えは裏づけられているように思う。

本来ならば、公務員の選定と罷免は、国民固有の権利であるはずなのに、実際には、行政職員に対しては、市民は何もできない立場に置かれており、それゆえ、あまりにも行政の腐敗が進み過ぎたのである。

国家公務員の不祥事について、人事院は個別の要件を扱わず、関係省庁は苦情があったからと言って、何の対処の権限も実際にはほとんど行使しない。行政に関する苦情について、市民にはどこにも訴える場所がほぼないのが実状である。

だからこそ、今日の行政には決して自浄作用というものが全く期待できず、裁判所のように市民からの訴えを真剣に取り上げる場もほぼほぼなくなっているため(システムが形骸化してしまっている)、一旦、役所が腐敗すれば、その腐敗はとどめようもなく、仕事をしない役人がいたからと言って、これをクビにする方法も市民にはないといった状況が生まれる。

行政は、市民と直接、接しているにも関わらず、市民からの声を汲み上げづらい状況にあり、その乖離がますます進んでいるように見えてならない。
 
もちろん、行政といっても、ありとあらゆる分野が存在するわけで、すべてがすべて腐敗の危険の只中にあると言うつもりはないが、やはり、国民からの選定と罷免の権利が及ばないことには、それだけの大いなる暗闇が存在するものと筆者は思う。
 
ところが、裁判所はそうした用件であっても扱える。もちろん、裁判所が公務員を罷免するわけではないにせよ、事件を裁判所に持ち出すことによって得られる効果は絶大である。裁判所には、行政の決定さえも覆すだけの権威がある。そして、その原動力となるのは、やはり、取るに足りない弱い無名の市民からの一つ一つの訴えである。

紛争を起こすことは、一見、物事を紛糾させ、問題を深化させるだけの行為のように見えるかも知れないが、筆者は、その一つ一つの訴えには、はかりしれない意味があると考えている。

物事を丸くおさめ、自分が譲歩して、あるいは願いをあきらめて、穏便に早期に和解によって紛争を解決するのは、「美しい」決着のように見える。それに比べ、紛争を提起する行為自体が、和を乱す「美しくない」行為と見える。まして紛争を徹底的に戦い抜いて、白黒決着をつけるなどの行為は、なおさらそう見えるだろう。

だが、実際には、その見栄えの悪い、調和を壊すような「美しくない」訴えの数々の中から、はかりしれない価値が生み出されているのが現実なのである。リスクを覚悟で最後まで訴訟を戦い抜く人々がいなくては、画期的な判決が生まれることもなく、その分だけ、社会の進歩や、成果が、勝ち得られずに終わる。

そういう意味で、筆者は、当事者が戦い抜いて得た判決には、やはり決して社会全体がおざなりにできず、またそうしてはならない絶大な価値があるものと考えている。

賠償金がいくら払われるか、どうやって支払わせるのか、といった金銭的な問題だけがすべてではないのである。もちろん、債務名義は、強制執行を行うこともできる根拠となるが、そのことをさて置いても、裁判所がもたらす新たな判決は、それ自体が、新しい生命の息吹となり、社会の目に見える物事の正邪を切り分け、目に見える物事を超越した立場からこれに裁きを宣告し、実際に物事を是正し、変えて行くだけの力を持つものである。
 
筆者は、裁判所が持っている権威の大きさや、市民が起こす一つ一つの訴えの意義、そして裁判所の使命について、飽くことなく考えさせられている。

我が国における三権分立は、決して行政を司法の下に置くものではないにせよ、もしも腐敗した行政というものがあるとすれば、それはやがて裁判所の権威の下に是正されることになるだろうと筆者は思う。
  
ところで、当ブログに関する訴訟の第一審は、そのほとんどの部分が、法廷ではないところで、弁論準備手続きとして行われ、裁判官が法衣を着て現れたのも、全体で三度でしかなかった(開廷の時、弁論終結の時、判決言い渡しの時)。

さらに、今、事件は控訴審へ向かっているため、これからは三人の裁判官が事件を担当することになる(それも何かしら三位一体を象徴するようにも感じられる)。

しかし、筆者にとって、法廷のイメージとは、常に法衣をまとった一人の権威ある裁判官が、原告・被告の双方が揃っているところで、厳かに判決を言い渡すというものである。

ただ裁きに権威があるというだけでなく、裁判官は決して当事者と同じ目線に立たず、当事者を見下ろす法壇に立ち、そこから裁きを宣告するからこそ、より一層、厳粛に感じられるのである。

この法廷のイメージは、筆者の心の中で、神とサタンと人間とが相対してそれぞれの主張をぶつける天的な法廷の地上的な絵図のようである。

ところで、筆者は三権分立を、不正確なたとえとはいえ、霊、魂、体という聖書に登場する三部位に置き換えて考えてみる。

行政とは、いわば「からだ」であって、司法は「頭脳」である。
 
立法は「命令」そのものを考えて発令する部位であり、聖書にたとえるなら、「光あれ」といった命令が発せられるところである。筆者から見ると、この発令は、あたかも霊からすべてが始まることを予表するかのようである。

司法は、発せられた命令に基づき、目に見える物事が実際にあるべき秩序にかなっているかという是非を判断し、違反を是正する部位であるから、一旦、「光あれ」という命令が下されたなら、何が光であり、何が闇であるかを精査し、光と闇とが決して混ざることのないようにこれを切り分ける機能を持つ。

つまり、絶えず善悪の判断を行う魂の働きになぞらえられる。

行政は「からだ」であって、目に見える物事の世界で、命令されたことを実行する手足のような機関に当たる。

この世における三権分立に主従関係はないが、霊、魂、体はそれぞれ主従関係にあり、その中で、最も卑しい部位は体である。なぜなら、体はこの世(目に見える世界の物事)と接触する部位であって、自ら判断を行うわけではないからである。

筆者は以前に、ハンセン病者は、体に痛みを感じなくなることによって、自分で自分の体を傷つけても、それに気づけなくなり、それが原因となり、体の一部を失って、いびつな姿になって行くのだと書いた。

もしかすると、我が国の行政には、これと似たような病が起きているのかも知れないと筆者は思う。我が国の行政は「からだ」である。ところが、この「からだ」は、良心の機能から切り離されて、次第に、自己を統制する力を失いつつある。
 
行政が、国民に奉仕しながらも、国民の選定・罷免が及ばないことによって、ほぼ完全に閉ざされた自存それ自体を目的とする自己目的化した機関のようになっていることは書いた。そのために、これはあくまで比喩であるとはいえ、三権の中でも、行政は、司法からも、立法からも、抑制が及ばなくなって、「良心の機能」という痛みの感覚から切り離されて、自分で自分を傷つけても、あるいは他人を傷つけても、それが分からない状態に陥っているのではないかと感じられる。

そのために、体のあちこちをぶつけ、随分、歪んでいびつな姿になってもそれが分からず、国民からの監視も、選定も、罷免も行き届かないことにより、すでに壊死しているような部分も、たくさんぶらさがっているのではないだろうか。

その「からだ」とは、「頭脳」のコントロールが効かなくなり、「知性」から切り離されて、感覚麻痺した不気味な体である。

そこで、このような「からだ」の感覚鈍磨、もしくは麻痺状態を是正するためには、生命の通わなくなった部位を本体から切り離し、そこに新たな生命力をもった「細胞移植」が必要となる。

良心の働きを、すなわち、痛みの感覚を取り戻すために、死んだ細胞の代わりに、新たな細胞を移植し、体の働きに「頭脳」の指令がきちんと行き届くようにせねばならない。

むろん、筆者が「移植」を行うわけではない。それは筆者とは何の関係もない事柄である。

しかし、自然淘汰に近いような形で、実際には、どんどん「移植」が行われている。行政サービスの様々な分野は、民間企業やその他の様々な団体に移行(委託)されているが、このことは、裏を返せば、純粋に「行政」と言える機関には、もはやこれらの仕事を自ら遂行する力がなくなりつつあることを意味するのではないだろうか。

新たな発想、そして、優れたノウハウが生まれて来るために、もはや自己の力だけではどうしようもなく、外へ助けを求めざるを得ない状況が生まれているのである。

だが、そのようなことは、行政が「閉ざされた機関」ではなく「開かれた機関」であったなら、おそらく起きなかった現象であろうと筆者は考えている。役所から見れば、それは単なる外部委託に過ぎない事業であろうが、真の意味で、政府が(もしくは地方行政が)、長年に渡る業務遂行を通して、絶え間なく国民・市民からの直接の声を汲み上げることができていたならば、その間に、サービスの向上、多様化が進み、民間委託するしか方法がないという状態には陥らなかったことであろう。

むろん、委託によって新たな生命の息吹が注ぎ込まれることは、歓迎すべきことなのであるが、筆者はどうしても、そういう現象が起きていること自体に、行政の行き詰まりのようなものを感じずにいられない。
  
以上で、裁判所の権威とは、目に見える物事を超越した領域から、裁きを宣告することにあると書いた。そこで、三権分立には、主従関係はなく、それは互いに抑制し合い、働きを分散させたものに過ぎないとはいえ、そうはいえども、筆者の目から見ると、実はやはり、目に見える領域で働く「体」=「行政」は、最も知性からはほど遠い場所にあると言って差し支えなく、その意味で、これは、命令を実行する手足のような機関であり、かつ、裁きに服さねばならない、徹底して「仕えるため」にある部位であると考える。

にも関わらず、「体」が知性を凌駕し、頭脳との関係までも覆し、一人の人間の中で、王様になってしまうと、人間の本来的な秩序が転倒する。ところが、我が国では、半ばそれに類することが起きているのが現状ではないだろうかと筆者は考えざるを得ない。

今は問題提起の段階なので、これ以上のことは深く語れないが、筆者はそのように、たとえるならば、麻痺しかかったような状態にある「体」に、良心と生きた感覚の機能を取り戻させるために、いかなる方法(手術・治療)が必要であるのかについて、ずっと考え続けている。

冒頭に挙げた御言葉は、従来の聖書的な解釈によれば、当然ながら、一人一人の信者に適用されるものであるのだが、それと同時に、これは「からだ」の働きを持つすべての職に当てはまる。

人に仕える立場にあるはずのものが、王様のように君臨している状態は、明らかに異常であるから、そのような状態を是正するためにも、自然と、壊死した細胞を生きた細胞に取り替える必要が生じているのではないだろうか。罷免が及ばなくとも、必然的に、何かしらの淘汰や刷新に近いことが起きているのである。

筆者がいたずらに行政の無為を批判し、役立たずの役人を罷免する制度が欲しいと言いたいがために、こうした事柄を、決めつけで書いているとは考えないでもらいたい。国家・地方公務員の選定と罷免を国民の側から可能とすることは、何らかの方法で必要であろうと考えるが、その問題とは別に、まずは行政と司法との間で(筆者は立法府のことはまだ知らず、関わっていないため言及できない)、生きた橋渡しを行い、真に抑制し合う関係を打ち立てるために、今後、必要となることは何なのか、筆者は自分自身の置かれた立場から考え続けねばならないと述べているだけである。

* * *

最後に、いくつかの個人的な事柄について書いておきたい。以下の二つは、筆者が当ブログを巡る訴訟が行われている期間中に学んだ最大の教訓である。
 
➀物事は非常に困難な方法で取り組んでみることにこそ価値がある(望みうる最高の願いを決してあきらめずに、犠牲を払ってそれに向かうことに価値があること)。
②理不尽だという思いを捨てることこそ、すべての物事の解決の最短コースだということ。

➀について言えば、通常の感覚では、訴訟の提起そのものが著しい冒険であり、未知の分野への挑戦であったため、それにも関わらず、控訴審まで及ぼうとしていること自体が、途轍もない大いなる挑戦(もしくは無謀な冒険)と映ることであろう。

しかし、周りからどのような評価を得たとしても、筆者は、やはり、どうしてもこれだけは譲れないと考える望みに対しては、人は妥協なしに取り組まねばならないことをいつも思い知らされている。

筆者の目から見て、なぜ裁判所がそれほどまでに尊い場所に映るのかという理由もそこにあるのだ。それは、そこに人々の命がけの「望み」が託されているためである。

訴訟には一つ一つ、個人的な争いにはとどまらない社会的な価値があると、筆者は考えている。当ブログに関する訴訟では、特に、クリスチャンの側から、どうしても述べておかねばならない問題があった。強制脱会活動の違法性の問題である。

遅ればせながら、ようやく控訴審になってからこの問題に言及することが可能となったとはいえ、こうなったのは運命的な巡り合わせであり、かつ、これははかりしれない価値あるテーマだと筆者は考えている。

なぜなら、今までクリスチャンの側から、強制脱会活動の違法性を認め、こうした活動を批判したり、反省する発言が、公の場所で聞かれたことはほぼないと考えられるためである。しかし、筆者は、これをプロテスタントの恥ずべき歴史としてとらえており、そのことをプロテスタントの中から(これまでプロテスタントの信者であった者の側から)公式に認め、声明することには、非常に重い意味があると考えている。

筆者は牧師でもない一信者に過ぎず、そもそも訴訟では他者の不法行為を指摘しているのであって、自分自身が脱会活動に携わって来たわけではないが、当ブログでは、そもそもの初めから、強制脱会活動はプロテスタントの汚点であるということを指摘し続けて来た。

その意味で、筆者の訴えは、キリスト教徒の側から、異教徒に対して、反省し、懺悔せねばならない問題があることを公に宣言するという意味を持っていないわけではない。筆者の訴えは、統一教会とは何の関わりもないところで提起されているとはいえ、クリスチャンの側から、こうした脱会活動を強く非難する言葉を、公の場所で述べておくことはぜひとも必要であると考えている。

そのチャンスが巡って来たのは、やはりこの戦いを控訴審へ持ち込むことに、真に意義があったたことを表しているように思われてならない。
  
さらに、②の理不尽だと感じる思いを捨てることは、決して誰から何をされても一切異議申し立てをしないという口封じの圧力に屈することは訳が異なる。理不尽なことは、理不尽であると、むしろ、公然と訴えるべきなのである。だが、そのことと、許せないという感情をいつまでも持ち続けることは異なる。

筆者は、第一審が終わってから数ヶ月ほどたった時に、心の中で理不尽だという思いを手放しつつ、それでも、訴えを続行することは可能なのだということを学んだ。それは、真実を明るみに出し、きちんと事実関係と責任の所在を明らかにし、物事をあるべき所に是正して行くために、必要な措置だから、訴えを続けるというだけのことであり、相手を徹底的に追い込むとか、自分の思い通りの決着に従わせるために、何としても争いを続行するというものではない。

そのように個人的な感情を手放すことができた時、その訴えは、神ご自身が取り上げて下さり、人間の努力によらずとも、速やかにしかるべき解決が与えられることを筆者は学んで来た。

ただし、これは繰り返すが、うわべだけ謙虚さを装い、波風立てないことだけを第一として、相手の前にわざと自分の主張を放棄して折れて出るとか、望みをあきらめるということとは全く意味が異なる。筋を通さなければならない場面では、不本意な妥協や和解を退け、最後まで物事を公然と明らかにすることは必要である。だが、それを個人的な怒りや報復感情とは関係のないところで、真に物事があるべき姿を取り戻すためにこそ、行うことは可能だと学んだのである。
 
ところで、最後に蛇足ながらつけ加えておくと、政府の行う行政サービスの中に、国側が敗訴した国賠訴訟への対応というものもある。さすがに、この仕事は外部委託はできないため、半永久的に、政府自身が行わなくてはならないであろうが、その領域まで行くと、役所はもはや自己正当化ができなくなる。たとえば、先の大戦中に政府が犯して来た数々の過ちの償いの問題があるし、ハンセン病者とその家族への償いもあろうが、こうした問題を扱っている役人は、どうしても国民の前に「悪者として立つ」ことを避けられない。

その領域まで来て、初めて行政サービスに自己反省と自浄作用の余地が生まれる。(言い換えれば、それ以下の国賠訴訟で敗訴を味わったことのない下部の行政機関には、我がふりを自分で正すという自己反省の力がないということである。)

だが、それとて、市民たちが必死の覚悟で訴訟を戦い抜いたことの成果なのであって、行政自身の自然な自浄作用によって生まれた結果ではない。集団的な国賠訴訟が起こされなければ、行政が自ら過ちを認めることはなく、苦情の電話や書面といったレベルで対応がなされることも決してなかったであろうと筆者は確信する。

そういうことを考えても、筆者は、やはり、行政が今や決して自力で到達できなくなっている自己反省の部分を補うという意味でも、司法の働きの重要性を思わずにいられない。そして、司法には、人間の魂の最も重要な機能としての「良心」の働きがあるように感じられてならない。だからこそ、そこに筆者は尽きせぬ興味関心を抱くのである。
 
弱く無力で追い詰められた立場から、国を相手取ってでも、訴訟を戦い抜いて、判決を勝ち取った人々の努力と成果があってこそ、先の敗戦によって生じた様々な混乱の責任を含め、数々の過ちの責任を政府に追及することが可能となり、我が国の今日の様々な法と社会のあり方が打ち立てられているのであって、その訴訟がなければ、政府自身が己が過ちを認めることは決してなかったであろうことを考えると、それを起こした人々の努力にはやはり敬意を持たないわけには行かないと思うのである。

それと同時に、「体」に働く痛みの感覚とは、人の良心の働きであって、人が自己反省によって軌道修正して行く力そのものであろうが、それを失ったとき、人は他者を傷つけるだけでなく、自己をも傷つけることになることを思わされる。

自浄作用をなくした行政の腐敗という問題と、プロテスタントが繰り広げた強制脱会活動の問題とは、そういう意味で、筆者から見ると、何かしらの共通点を持っているような気がしてならない。「プロテスタントの教会に自浄作用が働くなったために、被害者は裁判を起こすしかない」と警告していた牧師自身が、強制脱会活動に関わって来たことはまるで運命の皮肉のような話である。

なぜプロテスタントはそのようにまで盲目的で自己反省のない状態に陥ったのか。なぜ自ら神を信じると豪語する人々が、それほどまでに良心を失い、自分自身を正義の担い手のように考えながらも、他者から裁判を起こされるまで、人々の悲鳴に耳を貸さなくなったのか。(さらにもっと言えば、裁判を起こされても、なお不都合な判決には耳を貸さなくなった。)信者はこの問題についてよく考えなければならないものと思う。

筆者は、そこに、数々の外注の業者や、末端の下々の職員を絶え間なく(内心では見下しながら)「選定」したり「クビ」にしながらも、自分たちだけは、決して誰からも「選定」されることもなく「罷免」されることもないという自己安堵に陥った行政役人の「驕り」と、自分たちは由緒正しい正統な信仰を維持するキリスト教徒であるから、救いを知らない(で地獄に落ちる)他の人たちとは全く異なると自負する信者の「驕り」という、何かしら非常に似通った心理的問題があるような気がしてならない。
 
とにかく、そこに共通する問題として、高慢さとその結果としての自分とは異質な他者に対する君臨というものが存在することは確かであろう。それだからこそ、筆者は、逆にキリスト教徒の側から、誰か一人でも、この問題について、自分たちの側に責任があることを認めて、異教徒の前に頭を下げる人間が現れることが必要ではないかと考えている。

そのために、筆者は、誰が当事者として耳を貸すわけではないとしても、また、筆者自身が、責任を負うわけではないにしても、少なくとも、信仰者を名乗る人間が、こうした問題が起きていることに、気づきもせず、神と人の前で、声をあげることもない鈍感さと良心の欠如は、実に恐るべき感覚麻痺であって、そのような状態を避けるためにも、この問題について、真実を公然と明らかにし、責任の所在を問うことは、必要な作業であると感じている。そして、そのチャンスが与えられたことは、光栄だと感じているのである。

人は自分自身が罪を犯したわけではなくとも、人々の代表として、頭を下げなくてはならない瞬間がある。そして、聖書が根本的に述べているのも、人は誰も義人ではなく、生まれながらに罪人であるから、誰もヒーローにはなれないということである。

救われて、キリストに似た者とされるとは、より一層、へりくだって仕える人になることをしか意味せず、尊大で他者を見下しながら、自分だけは特別だと己惚れる人間になることを意味しない。だから、たとえ自分に罪がなくとも、信者にはへりくだることが必要であり、そのために、自分の憤りを手放すことも必要であり、それがなされた時に初めて、我々の訴えは、神と人との前に義と認められて、速やかに聞き入れられるものとなるのではないかと感じている。

そのことを、筆者は自分自身の訴訟を通しても、日々の生活の中でも、毎回、毎回、繰り返し、思い知らされつつ、同時に、それでも手放すこともできず、あきらめることもできない切なる願いを、神と人とに訴え続けながら生きている。それだからこそ、それだけの言葉に言い尽くせない思いを通過しながら、学び、勝ち取られた成果としての判決には、そこに書かれている文字以上の価値があると思わないわけにはいかない。また、そうした人々の悲痛な思いが集積されているのが裁判所であることを思うと、その場所には、畏敬の念や、厳粛さと同時に、深い憧れや愛情にも似た特別な思い入れを抱かないわけにいかないのである。



「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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