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「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:3-6)

オースチンスパークスのこの度の連載は、士師記をテーマとしており、士師記に重ねて、今日の聖徒らの恐るべき弱さの原因について語るところから始まっている。これからどう展開して行くのか、非常に興味深い内容である。

「霊の力の回復」第一章 十字架についての新たな理解 (3)
 
これを読むとき、私たちの霊的な強さは、神への徹底した従順の欠如から来ることが分かる。従順とは、御言葉に従うことであり、従うためには、御言葉と反するものに決して安易な妥協をしないことが必要となる。

ある人々が教会への迫害者に対する裁判に及び、裁判外で和解したところ、賠償金の支払いを約束したはずの相手が国外へ逃げてしまったという。これなども中途半端な妥協の結果としての苦い教訓であると言えよう。

真に和解できる相手ならば良いが、約束を履行するつもりがないか、履行しない可能性のある相手との和解は禁物である。

キリスト教徒は何事においても争うべきでなく、和解を目指すべきだと言う人々がいる。しかし、この世には決して和解してはならない相手、和解が不可能な相手というものが存在する。妥協することが、福音の根幹すなわち永遠の命に関わる問題へと発展する場合があるのだ。

そのように安易な妥協を繰り返し、手を結んではならない者と妥協することが、どれほど主の民から力を失わせるか、主のための証を失わせるか、士師記における主の民の敗北の積み重ねの中に見て取れると、上記の論説でも示唆されているのではないかと思う。

しかし、妥協してはならない相手とは、この世のあれやこれやの人間というよりも、とどのつまりは、サタンである。

ところが、筆者は、最近、ある信者と話をした際に、「何でもサタンのせいにするのはサタンへの責任転嫁だ」などという発言を聞いて、心から驚愕してしまった。筆者はそれとは全く逆の考え方をしているからである。

筆者の考えを述べておこう、「どんなことでもサタンのせいにしてしすぎることはない」と。

本来、サタンが負うべきはずの重荷を、人類がどれほど不当に転嫁されて苦しんでいることか。御言葉の約束を固く信じてて、これを自分に適用しさえすれば、それが自分の重荷ではなく、サタンの重荷であることにすぐに気づいて、解放される権利があるのに、それを知らずに、悪魔から不当に押しつけられた重荷を自分の力で背負おうとして苦しんでいる信者たちがどれほどいるか。

その重荷は、御言葉に基づいて、悪魔にお返しすれば良いのである。それなのに、御言葉を適用して自由になることができるのに、それに気づかず、わざわざ自分で問題解決をせねばならないと考えて苦しんでいる人は多い。不当な重荷を押しつけられているにも関わらず、まだ自分は負うべき重荷を十分に背負っていないなどと自分を責めているのである。そして、あまつさえ、サタンに責任転嫁してはならないなどと荒唐無稽な発言を大真面目にしているのである。
 
だが、そのように無知でいる兄弟姉妹を嘲笑うこともまた禁物である。以上のようなクリスチャンの弱さを見て、「これだからニッポンキリスト教界は・・・」などと言い始めれば、まさに悪魔の思う壺である。兄弟姉妹を責めるのではなく、彼らの目をくらましているサタンをこそ責めなければならない。

(KFCのように、クリスチャンの無知を高みから見下ろしては嘲笑しているグループなどは、クリスチャンを責めながら、決して悪魔を責めようとしないところに大きな罠がある。カルト被害者救済活動が、被害者の無知を責めて、加害者を無罪放免したのと同じ理屈である。確かに、クリスチャンの弱体化は嘆かわしい問題であるとはいえ、キリスト教徒の無知を責めたり、嘲笑するような人々は、それによって、聖徒らを辱めてサタンを無罪放免する側に回っていることを思い知るべきである。)
 
かつて筆者はある交わりにおいて「サタンを責める」ことの有用性を聞かされ、そこから非常に重要な教訓を学んだと考えている。サタンを責めるなどのことは、初めは筆者にも、まるで意味のないことのように思われた。しかし、その後、不当な重荷を負わされないためには、徹底的にサタンと言い争って、御言葉に固く立って、サタンから来た重荷をサタンに跳ね返すことが必要なのだと学んだ。そして、それが可能なのだと。

もう一度、我々はどんなことでもサタンのせいにしてしすぎということはない、ということを言っておかねばならない。私たちがどれくらい解放されるかは、私たちが不当に負わされている重荷にどれほど気づいて、これをサタンに跳ね返すかにもかかっていると言えよう。筆者が多くの信者に気づいてもらいたいと願わずにいられないことは、サタンだけは、どれほど責めても、責めすぎということはなく、サタンを責めても、いかなる権利侵害も発生せず、八つ当たりにも該当せず、名誉毀損も発生しないことだ。そもそも地獄で永遠の刑罰に定められている存在に対して、私たちがどれほどひどい責め言葉を発したとしても、行き過ぎということはない。サタンには永遠の恥辱がすでに与えられているのだから、今更、回復すべき名誉などあるはずもないことは明白である。

ところが、不思議なことに、キリスト教徒を名乗っている人たちのうちかなりの数が、サタンを憎むこともなく、むしろ、サタンに同情すらしている現状があることを知って、筆者はこれに非常に驚き、嘆かわしい事態だと思っている。

聖書に記されている通り、サタンは「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)であり、私たちクリスチャンを日夜告発する者である。サタンがどれほど執拗に、私たちにいわれのないことで責任転嫁しては、私たちに有罪を宣告しようと機会を狙っているかは、ゼカリヤ書を見ても分かる。

「 時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。 主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。 」(ゼカリヤ3:1-2)

悪魔は大祭司ヨシュアを訴えたように、今日も、聖徒らを訴えている。サタンがどれほど聖徒らに濡れ衣を着せようと、日夜、神の御前で執拗に聖徒らを訴えているかを考えれば、私たちは、そのいわれのない告発から身を守るために、御言葉で武装する必要を否定することはできない。

私たちには、サタンの執拗さを上回るほどの執拗さで、サタンを神に告発することが必要なのであり、そのために、私たちは自分を贖って下さった神の約束に固く立って、御言葉を防衛の盾として自分自身に適用し、証の言葉を述べなければならないのである。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:10-18)

このように、霊の戦いは何ら荒唐無稽な作り話でもファンタジーでもない。「悪魔の策略」というものがれっきとして存在しており、これに対抗して立つために、主の力によって強められ、神の武具によって武装することが必要なのだと御言葉ははっきり述べている。

これまで当ブログでは、霊の戦いとは、暗闇の軍勢が振りまく嘘に対して、御言葉に立って反論し、激しい論戦を繰り広げ、嘘に打ち勝つことを指すと述べて来た。霊の戦いとは神社に油をまくことでもなければ、悪霊退散の祈祷を行うことでも、訳の分からなお札を家中に張り巡らすことでもない。

私たちの戦いは、悪魔の虚偽に対して、神の御言葉に固く立って反駁し、嘘を打ち破って、人々の思いの中に働く惑わしを打ち破り、この地上において、真理を浸透させて行くことである。
 
むろん、物理的な領域における戦いというものもあるとは思うが、まずもって霊の戦いとは、真理と嘘の間で戦われる激しい攻防戦なのである。そこで、私たちも日常生活において、あらゆる不当な言いがかりや圧迫を受けるであろうが、そもそも自分に非のないことで、悪魔から不当に責任転嫁される筋合いにはないということを、はっきりと言い返さなければならない。どんな些細なことであれ、心に罪悪感をもたらす重荷をきっぱりと拒否して、罪はその真の出所(悪魔)にお返しする必要がある。

その根拠となるものが、小羊の血潮による義認である。これを持って、私たちは自分がどんな事柄においても、誰にも決して責められるべきところのない完全な人だと言えるのである。

しかし、それでもサタンはあることないこと取り上げては、私たちを非難して来るであろうから、私たちはその虚偽に対しては、神に義とされた者として断固立ち向かい、神の開いた法廷の前で、日夜、サタンと対峙して、彼の罪を訴えなければならない。

クリスチャンは望むと望まざるとに関わらず、日夜、サタンから激しい論戦を挑まれ、それに対して御言葉によって勝利することが求められているのである。

ここで注目せねばならないのは、神とサタンが言い争っているのではないということだ。法廷において、対立する陣営として向き合い、論戦を繰り広げているのは、人類(聖徒ら)と悪魔であり、神は両者の言い分に耳を傾け、判決を下す裁判官の立場にある。

神がサタンの言い分に耳を傾けるのかと驚く人があるかも知れないが、ヨブに試練が与えられた時、神は、サタンがまずヨブのような義人でも試練が与えられれば信仰を捨てるだろうと述べた言葉に耳を貸されたことを思い出したい。そして、サタンの提案した挑戦の方法では、決してヨブの信仰を取り去ることができないことを示すために、神はあえてサタンの提案を実行に移すことを許されたのである。

このように、神は今日も、悪魔と信じる者たちの言い分を比較衡量される。しかし、それはサタンに勝利を与えるためではなく、サタンのすべての策略を打ち破って、神の教会が、神の豊かではかりしれない知恵を表し、それによって神に栄光を帰するためである。サタンはあらゆる脅かしを使いさえすれば、信者はみな神への信仰を捨てるものと確信している。しかし、神はそうではないことを知っておられる。知っておられるが、サタンの挑発を跳ね返して、信仰に立ちおおせて神に栄光を帰する仕事を、あえて信者に委ねておられるのである。

神と悪魔との間では、キリストの十字架においてすでに決着が着いているが、被造物の世界において、決着をつけるのは、いわば、私たちの仕事である。

神はキリストの十字架において、私たちを奴隷にしていた罪の債務証書を無効にし、破り捨てられたが、その後、今度は、私たちがサタンへの告発状を書いて、それを携えて、神の御前に立っている。

サタンも被造物であるが、私たちも被造物として、神の創造された世界の主権が誰にあるのかを争っている。悪魔は、それが自分のものだと言う。しかし、私たちはそうでなく、神のものだと言う。私たちは、サタンは不法侵入者であって、サタンが主張している主権は、神から強奪したものでしかないから無効であると訴えている。

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)

私たちに任されている使命は、キリストの勝利を被造物の世界においても打ち立て、御名の権威を行使して、すべてのものが膝をかがめてイエスは主と告白するよう、神の主権、力、支配をこの地に来たらせることである。そのために、私たちは、サタンによる占拠が不法であり、無効であることを訴えて、立ち退きを迫っているのである。
 
私たちが被造物の世界において、御名の主権を取り戻し、かつ行使して、サタンに立ち退きを迫る根拠となるのは、キリストが十字架において悪魔の支配を打ち破られ、私たちを奴隷として拘束していた罪の債務証書を無効とし、死の力を滅ぼされたことである。

この勝利の証文を振りかざして、私たちは日夜、神の法廷において、サタンの言いがかりに立ち向かい、事実を争っているのである。敗北すれば、サタンの領土が広がる。勝利すれば、キリストの主権による支配が広がる。創世記の冒頭で、人類が蛇に遭遇し、神に従うのか、悪魔に従うのか、決断を迫られた時のように、今日も、私たちは神の御言葉と悪魔の言い分のどちらを信じて従うのか、常に決断を迫られている。

だが、創世記と異なるのは、私たちにはすでに律法を成就されたキリストが共におられ、私たちのために知恵と力となって下さっていることである。
 
繰り返すが、神は確かにキリストの十字架において悪魔に勝利を下されたが、その勝利を行使することは、私たちの日々の生活にかかっている。その勝利をこの地に実際として引き下ろし、適用し、キリストの御名によって支配される領域を拡大することは、私たち自身に任された仕事なのである。

その中で、私たちは、私たちを不当に責めるサタンを責め返し、彼に重荷を跳ね返すことがどれほど必要であるかを知らなければいけない。

繰り返すが、サタンの罪というのは、もはや天に到達するほどにうず高く積みあがっており、その上に何を増し加えたとしても、加えたことにならないほどである。サタンはいわば無限大に罪を犯している存在であって、「サタンを責めるのはお門違い」などということは決してあり得ない。
 
人類が罪を犯して堕落したことも、根本的にはサタンのそそのかしによる。確かにキリスト教徒となり神の子供として受け入れられるには、私たち自身が、罪を悔い改め、神に立ち帰ることが必要であるが、それは一度限り永遠に効力を持つものであり、悔い改めとは、悪魔に向かって永遠に懺悔し続けることではない。

すべての罪の起源は、サタンにあり、サタンこそ責められるべき張本人であることを私たちは忘れるべきではない。それを忘れて、霊的に弱体化したクリスチャンばかりを責め続けていれば、いずれ悪魔に加担する羽目になって行くのは避けられないであろう。
 
聖徒らが弱体化したことの責任も、もとを辿ればすべてサタンにあると言えるのであって、サタンにはいかなる同情も憐憫も無用であり、サタンに責任転嫁してはならないなどと言った主張は、すべて荒唐無稽である。それは私たちに真の敵が誰であるかを忘れさせ、私たちのものではない重荷を私たちに背負い込ませようとするための虚偽の策略であると言えよう。

ところが、このような話を始めると、早速、耳を閉ざしてしまう信徒たちが現れる。彼らは悪魔とは何かしら形而上の存在であって、比喩のようなものだと考えて、それが現実の存在だとは信じておらず、悪魔に立ち向かうという話を聞くと、極端なたとえ話や、冗談のような話を聞かされていると考えて、耳を背けるのである。しかし、悪魔の存在を否定すれば、その分だけ、彼らは自分たちをそそのかし、惑わす存在があることに対して無知となり、抵抗する力がなくなって、無力となるのだと言える。

敵が存在しているにも関わらず、敵などいないと考えて防衛を怠るほどに危険なことはない。攻撃を跳ね返すためには、攻撃の源を知らなければならない。しかし、多くの場合、敵からくる攻撃は、物理的なものというよりも、思想的な攻撃である。敵の要塞というものが存在する。嘘、詭弁、屁理屈、神の知恵に逆らう高慢、思いをくらます惑わしなどの策略が存在し、それらを発する要塞となる拠点も存在する。

しかし、私たちは、その要塞をも御言葉に立脚して、神の知恵により、ことごとく論破して、破壊して行くのである。以下の言葉は、預言者エレミヤだけに述べられた言葉ではない。万民祭司の今日の時代には、クリスチャン一人一人がその役目を担わなければならない召しを告げたものに過ぎない。

いつまでも弱さの中にとどまっていてはならない。神の勇士たちよ。小羊の血潮により、贖われた者として、神の義に固く立って、悪魔の嘘に対抗し、主の偉大な力によって強くなり、敵の要塞を破壊して、すべての思いをとりこにしてキリストに従わせる神の戦士として大胆に前進し、新たな領土を勝ち取りなさい。
 
「主の言葉がわたしに臨んで言う、 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。  その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。

しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。 彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。 」(エレミヤ1:4-10)

私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」

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今年も冬が近づいている。このところ、筆者は特注のクリスマスケーキ作りに忙しい。もちろん、これは比喩であって、本当にクリスマスケーキを作っているわけではないのだが。

筆者は今、書類の山に埋もれ、歳末総決算となる書類を書いているところだ。

こうして文書を作ることは、どうやら筆者の生涯で、避けて通れない仕事であるらしい。おそらく、これが筆者の真の仕事なのだろう。しかし、今年はこれまでに輪をかけて大変な作業であった。ブログ記事を書くための精力も吸い取られ、文章を書く力がほとんど残らないほどだ。

しかし、今年はこれまでにない大きな収穫があったと言える。それは、これまでには、ただ筆者一人だけが、孤独の中で懸命に奮闘して、正義や真実を守るための文書を作成して来たのだが、今年は、その文書の作成を、他の人々が手助し、補ってくれたことである。

それによって、筆者はどれほど肩の荷が下りて楽になったか分からない。

筆者は今年が来るまで、真に聡明な人たちに出会って、彼らの手で、筆者のために、胸のすくような文章を書いてもらったことがなかった。もしもそういうことがあったとすれば、推薦状くらいだったであろうか。しかし、推薦状には、胸のすくような内容は一行も書かれておらず、面白い内容もない。

ところが、困難な事件に遭遇した時に、目に見えない「推薦状」を書いてくれる人たちが現れたのだ。彼らは、きっと自分たちがそんな重大な役目を果たしたとは、夢にも思っていないかも知れない。しかし、彼らは、ちょうど痒い所に手が届くように、筆者が言いたくても言えなかった言葉を代弁してくれたのだ。頼んだわけでもないのに、まさに心の中を見通したかのように、今、筆者が最も必要としていることを言い当ててくれたのだ。

こういう文章を読み聞かされるとき、生きていて良かったとでも表現するしかない、何か深い感慨が心の内側に込み上げて来る。自分によく似た人間を見つけ、理解者を得た、という感慨のようなものか。

筆者はこれまで言葉の世界に生きて来たため、常に言葉を通して、相手の人格や、心の内を確かめることに慣れている。多くの人は、外見を見て人を判断するのであろうが、筆者は、まるで目を閉じて、暗闇の中で、声だけを頼りに人を判断するように、人の発する言葉の内容を通して、その人の人柄、生き様を確かめる。

もしかすると、究極的には、初めから最後まで全く互いの姿を見ずとも、言葉さえあれば、かなり深いレベルまで、その人を理解することができるのではないかと思う。学術研究などでは、そのように時代を超えて、姿を見ることもできない人物を深くまで理解する力は助けとなる。
 
しかし、筆者の孤独は、そのような方法で、共通理解に達することのできる人がなかなかいないことであった。耳を澄ましても、賢明かつ品位ある言葉はほとんど聞くことができない。聞こえて来るのは、虐げられている人、苦しんでいる人がいても、これを踏みにじり、罵り、嘲る言葉ばかりで、彼らを救うために、必要なタイミングで、権威ある言葉が発せられるのを聞いたことがなかった。

ところが、そのような状況がどういうわけか、大きく変わって来たのである。こうして聞こえて来る解放の言葉は、筆者にとってはまるで音楽である。

筆者が自由と解放を求めて言葉を発すると、その言葉が、水面に広がる波紋のように、目に見えない形で世界に影響して行き、虚空から、こだまのように言葉が返って来る。

その言葉が、筆者の言葉と同じように、自由と解放を求める言葉であったときの感動は、表現できない。

言葉を介して、同じ考えを共有する者たちの間で、音楽が成立する。言葉と言葉が、まるでフーガのような追いかけっこをしながら、一つの調べになって行き、複数の人間が同時にそれに参加して、一つの音楽を奏で、一つのストーリーを作り上げて行く。黙示録の十四万四千人の歌は、ちょうどそんな感じではないだろうか、と思う。

それはまさに人を解放する福音の調べである。

それは、互いが必死になって自分の言いたいことばかりをしゃべって、互いに押しのけ合うような、攻撃的な言葉ではない。あるいは、自分の方が相手よりすぐれて賢明であることを思い知らせようという意図で発せられる、人を圧倒する言葉ではない。揚げ足取りでもなければ、注意や叱責や非難の言葉でもない。

それは、一つの歌なのである。筆者には考えつくこともできない、非常にすぐれて賢明な言葉が、筆者ではない他人の口から発せられる。ところが、その言葉は、まるで筆者の言葉の続きであるかのように、何の違和感もなく、筆者の言葉となじみ、一つになって行くのである。

こうして、同じ心を持つ人々が集まって、壮大な歌が作り上げられる。

そういう光景に出くわしたとき、筆者は、それまで必死に言葉を紡ぎながら、弱者を守るため、自分を守るために、神の国の権益を、信仰を守るために、文章を書いて来た仕事を、途中で投げ出したくなった。これほど優れた人たちが現れたなら、筆者のすることはもう残ってはいないと、緑の草原に仰向けに寝ころび、そのまま心地よく寝入ってしまいたい気持ちになった。

どう表現すれば良いのかも分からないが、この地上は、隅から隅まで悪人ばかりではなかったのだと、途方もない安堵の念が込み上げて来たのである。

もちろん、だからと言って、筆者は自分のなすべき作業を投げ出したりはしない。そしてもちろん、束の間、少しばかり助けてもらったと言って、誰かを過度に賞賛したり、人間に栄光を帰するつもりもない。

私たちの助け手は神であり、ここで筆者が言及している人々は、あれやこれやの特定の人間ではなく、神がその時、その時に送ってくれる必要な助け手に過ぎない。
 
さて、コメント投稿欄も閉鎖してかなりの月日が経つ。ブログを書いても反響はなくなり、あるのは悪意による中傷ばかりで、真剣な応答が見られなくなって久しい。

かつてあれほど真剣に神を求めて共に歩もうとしていた民は、生活の心配の中で散り散りになり、もはや言葉を交わすこともできない遠い領域にまで去って行った。

各種の抗議文やら、訴えやらは、愚かしい虚偽の中傷を撃退して、自分の権利を守るために、避けては通れない戦いであるから、真剣に書き記す必要があるが、それはあくまで自分の正当な権利を守るために書き記すものであって、それ以外に、何を目的とし、誰のために、何のために、文章を書き続けているのか、誰がそれを読んで理解し、賛同を示すのか、反響もなく、目的がほとんど分からないまでになっていた。

ところが、その作業の最中に、思いもかけないことが起き、筆者が途中まで歌って、疲れて歌いやめようとしていた歌の、続きを歌う人たちが現れたのである。その時、これまでこういう大変な作業を続けて来たことは、決して無駄ではなかったのだと心から感じた。

心理的な負担の大きい文書は、初めからイメージ通りに作れるものではない。芸術作品としての詩や小説を書くことと、論文を書くことは、全く異なる。さらに、論文を書くことと、訴状を書くことは全く異なる。同じ訴えを出すにしても、他人に起きた事件について書くことと、自分の遭遇した事件について書くことは全く種類が異なる。

人は自分にとって重大な意味を持つ出来事であればあるほど、その事件について、冷静に客観的に分析することができなくなる。文才のある人でも、おかしなくらいに、紙の上でしどろもどろに、ろれつが回らなくなる。

そのような大きな心理的負担の伴う作業をこなせるようになるまでには、何年間もの歳月が要るのだ。

その間に、いくつもの試作品を作り上げては、何度も書き直す。最後の最後になって、ようやく人前に出せるような、意味の通る文書が出来上がる。

だが、すでに書いた通り、最も大変なのは、人に認められる立派な形式の伴う文書を書き上げることではなく、心の整理をすることである。自分の遭遇した出来事を客観的に見つめ、自分に起きた事件が、自分のみならず、この社会全体にとって、どういう意味を持つのか、普遍的価値を見つけて、これを引っ張り出して来なければならない。そうして、起きた出来事に意味づけを行うことができた時に初めて、その文章が一人の人間の訴えを超える重みを持ち、万人に対する説得力を持つものとなる。

しかし、そうなるまでに心の整理が必要であり、それには歳月を要する。

かつては司法の場に信仰に関する争いを持ち出すことに反対していた筆者が、司法の場に決着を委ねようとしているのは、皮肉な巡り合わせのようにも感じる。しかし、筆者は、宗教界の中では、決してこのような事件について正しく決着をつけ、これを裁ける人もいなかったであろうと思う。

それは非常に残念なことであり、また、恥ずべき有様なのだが、それにしても、ここには、御子はまず真っ先にユダヤ人の救いのために地上に来られたのに、選民たちの心には彼を受け入れる願いがなく、パウロがユダヤ人に伝道したのに、ユダヤ人に拒絶され、異邦人伝道に回ったと同じようなパラドックスがあるように思う。

筆者は、クリスチャンであるが、ある意味では、かなり長い年月、この世に足をつけて生きて来た人間であり、宗教界で純粋培養された信者ではない。その筆者が、若い頃から様々な文書を作り続けて来た人間であることも、決して偶然ではあるまいと考える。

司法の場での争いの形を取っているが、その本質は、異端反駁であると筆者は感じている。

さて、カルト被害者救済活動は、これまでキリスト教界の争いを、先手を打って、司法の場に持ち出すことで、クリスチャンを脅かして来た。多くの人々は、訴訟で訴えられること怖さに、この運動の支持者から恫喝されると、たちまち反対して声を上げることができなくなった。

しかし、筆者は今、その恫喝の手段を、敵から奪ったのである。

やたら裁判という言葉を振りかざしては、クリスチャンを脅し、罪に定めようとして来た勢力の手から、司法という手段そのものを取り返したのだ。

すると呆れることに、かつてはあれほど裁判、裁判と叫んで、牧師たちやクリスチャンを非難していた人たちが、自分ではまともな文書一枚、書けなかったことが判明した。

何ということであろうか。一体、教界の中には、なぜこのようなこけおどしのレベルの恫喝に、毅然と立ち向かえる人が、一人もいなかったのであろうか。

筆者は今、自分が行っていることを、ハマンを訴えた王妃エステルの所業になぞらえるが、果たして、教界にはこの出来事の重さを理解している人々がいるのだろうかと思う。

人里に熊が下りてくれば、捕獲せねばならない。そうでなければ、里に住む人々の生活が脅かされる。熊が可哀想だなどと言っている場合ではない。小熊くらいなら、まだ命は助けられるかも知れないが、野生の親熊を野放しにしておくわけにはいかない。動物愛護法も、人間のために作られたものであって、人間を犠牲にしてまで、野生動物を助けることを目的とはしていない。人里において、野生の熊と人との生活は併存し得ない。

同様に、クリスチャンは、暗闇の勢力に対しては毅然と立ち向かわなければならない。そして、これを勇敢に撃退して、自分たちの生活の安全を守らなくてはならない。ところが、今やどうだろうか。人里には野生の熊が溢れ、人々はやられ放題、それどころか、人里にいる人間が、普段から戦争し、憎み合い、殺し合っている有様なので、彼らは熊を見ても、これを排除するどころか、どうやって熊をうまく利用して、嫌いな人間を始末できるかなどと考えている有様である。

彼らは、内心、自分の憎む同胞をかみ殺してくれた熊には、勲章を授けたいほどなのだが、大っぴらにそうとは言えないので、動物愛護法などを持ち出して、脅かされ、傷つけられ、殺された熊のために涙を注ぎ、塚を作っている。それでいながら、熊にかみ殺され、傷つけられた人間のためには一滴の涙も流さない。

このようなものは、「人里」の生活ではないだろう。このようなものは、人間の暮らしではない。人間が獣のレベルにまで堕ちてしまったのだ。ここまで堕落した倫理道徳を、どうやって引き上げ、回復できるのか。こんな「人里」を、そもそも「熊の脅威」から守る必要が本当にあるのか。

しかし、それでも、教会は、神がご自分の瞳のように愛される、神の聖なる花嫁なのである。ゴリアテが大暴れして、神を穢す言葉を吐いているときに、神はこの地上をあまねくご覧になって、そこに誰か一人でも、神の御名の永遠に揺るぎない権威であることを確信して、信仰によって、勇敢にゴリアテに立ち向かう人間がいないかを探し出される。そうして選び出されて来るダビデは、いつの時代にも、まだうら若い未熟者で、誰から見ても勇士と呼ばれるような偉大な存在ではない――。

今日、キリスト教界がどれほど弱体化したか、どれほど倫理を失ったか、どのような恐ろしい内紛に陥ったか、そんなことは、神がご自分の花嫁たる教会――エクレシアーーをご覧になられる際には、全く関係ない事柄なのである。

そういう腐敗堕落にばかり目を留めてはいけない。神はバアルに膝をかがめない勇者たちを、いつでもどこからでも選び出して来ることがおできになる。

私たちは、御名を掲げる主の民であるから、その中から、神の国の権益のために、主の民の権益を守るために、暗闇の勢力に対して、勇敢に立ち向かう新しい人となる必要がある。

敵が手にしている武器を奪還し、敵の名の記された旗を引き下ろさなければならないのだ。

筆者は本年になってから、その手法を少しずつ学んだ。そのおかげで、今や敵軍は、自分たちの名を冠した旗を恥ずべきもののように降ろし始め、遁走態勢に入っている。

私たちは、彼らが私たちの名を奪い、私たちの存在を奪って、歴史を彼らにとってのみ都合よく書き変え、私たちの存在を地上から消し去ろうとしたことに対し、全力で抵抗し、敵のやり方を逆にして、彼らに攻撃をしかけ、彼らの名を奪い取って消し去り、彼らの武器を奪い取って我がものとし、彼らの改ざんした歴史を、我々にとっての真の歴史(His-story)に戻すために、勇敢に戦ったのである。

私たちは常に、我々人間の目から見た歴史ではなく、神がこの地上をどうご覧になるかという歴史を、追求し続けている。

神が御子の命と引き換えにしてまで贖われたのは、野生の熊ではなかった。神は悪魔と暗闇の勢力を惜しまれたがゆえに、地上に御子を送られたのではない。神は人間を惜しまれ、人間を救うために、ご自分の独り子を十字架にかけられたのである。

今日、神がご自分の民と認識しておられ、瞳のように守っておられるのは、十字架に敵対し、贖いを否定し、神を穢す言葉を吐き続けている旧創造ではない。

私たちは、自分が、神が御子の命と引き換えにしてまで贖われた民であることを自覚し、キリストの血の代価が支払われた民であることを自覚し、その価値をもっと惜しまなければならない。そして、自分が何者であるかをきちんと自覚して、その尊厳を守らなければならない。

私たちは、くつわをかけて引き回さなければ言うことを聞かない愚かな家畜や、捕獲されるべき荒々しい野獣ではなく、上品で、つつましく、教養があって、礼儀正しく、何が正義であり、真実であるかをわきまえ、御心に忠実に従うことのできる花嫁であり、御霊に導かれる民なのである。

しかし、御霊に導かれる民としての品格が、今、主の民の中にどれほど残っているであろうか?

いずれにしても、荒くれ者たちは、人里から去って行かねばならない。そうして、荒れ果てた庭は、花々が咲き、人々が行き交い、小鳥たちが歌う楽しい園が回復されなければならない。

筆者自身も、危ういところまでは行ったが、少なくとも、自分の名を敵に奪われることなく、取り返すことはできた。たとえ賛同する者が誰もおらずとも、これは神の教会を、暗闇の勢力から奪還し、キリストの花嫁としての尊厳を回復するために、なくてはならない戦いなのであり、主の民が、命をかけて戦い通さなければならない信仰の歩みの一歩なのである。

筆者は2009年に「キリストの十字架以外に救いはない!」と題する記事を書き、カルト被害者救済活動のむなしいことを訴えたが、その後、もしもその筆者が、自分の掲げていた御名の記された旗をあっさり降ろしてしまえば、筆者の証しは、本物ではなかったことになろう。

それでは、筆者の救いも、本物ではなかったことになろう。

そうなれば、筆者の名は、インターネット上だけでなく、命の書からも抹消されることであろう。人前で神を拒む人間を、神も拒まれるのだから。

そこで、筆者は、神が今日も生きて力強く働かれ、ご自分の愛する民を力強く守って下さり、ご自分の愛する子供たちを、この世の終わりまで見捨てず、共にいて下さり、助け、支えて下さることを生きて証明せねばならない。

しかし、その戦いの中で、いわゆるクリスチャンを名乗る人々ではなくて、この世の信仰を持たない人々が果たした役割のことをもきっと忘れないだろう。

だが、信仰があるかないかに関係なく、私たちは、すべてのものがひざをかがめ、キリストに服従する時が来るまで、この地上に、御名の権威を記した旗を立てるために進軍している。すべての目に見えるものが、目に見えないキリストの御名に服するときまで、十字架を貫き通すことが、私たちの戦いなのである。

その中で、私たちは、ただ自分の生存を保ち、支えるというだけではなく、主の民の霊的状態を整え、貧しく、荒廃した今日の民の状態を、回復するという役割を与えられている。

それが今日の祭司としての役目である。熊の脅威が取り除かれれば、人里の復興という課題が待ち構えている。しかし、それとて、私たち一人一人が、キリストにある新しい人として、命の御霊の路線をどう生きるかにかかっている。

キリストの花嫁たる教会の回復は、私たちの内なる尊厳の回復と密接な関係がある。落胆することはない――試練が大きければ大きいほど、その中で与えられる慰め、栄光も大きいからだ。どのような試練があろうとも、最後まで御言葉に固く立って信仰を守り通した者には、命の栄冠が待ち受けている。御霊の内なる油塗りが、私たちの心の内側に、高貴な花嫁としての人格を形造ってくれるだろう。

試練が、一人一人の信者の内側に、キリストの人格を、痛みと共に彫り刻んで行く。しかし、まさにその彫刻がなされている最中には、私たちは痛みしか感じず、それが一体、何のためであるのか、どのような実を結ぶのか、理解もできないことであろう。しかし、すべてを忍び通した後には、思いもかけない栄光が待ち受けていることと思う。それは、私たちの内側に、主の花嫁にふさわしい高貴な人格が造られることである。

外面の回復ではなく、内面の回復という新たな局面に、私たちは差しかかっている。このことについてはまた追って書いていきたい。



オリーブ園のオースチンスパークスの記事「「私たちのすべてなるキリスト」 第九章 子たる身分の意味と価値(3)」が秀逸なので、この一連の論説を続けて読むことをお勧めする。

そこには、御子が地上にあって、どのように御父から命の供給を受け、権威と尊厳を持って生きられたか、その具体的な方法が記されている。それは、今日、私たちが地上にあって御子と同じように使用できる法則である。

私たちは御霊にあって、その命からすべてを引き出す方法を知る必要がある。これは魔法ではなく、子たる身分に基づいて、神から私たちに与えられた恵みである。

私たちは、キリストの復活の命の中から、日々の糧、人々と関わる際の知恵、この世を圧倒的に超える権威、目に見えない高い霊的な地位を供給されるのである。

キリスト者として歩むに連れて、私たちはいかなる人間関係の中においても、自分が支配的・優越的地位に立たなければならないことが分かって来るだろう。それがなければ、私たちに与えられた自由は発揮されることがないし、私たちの霊的権威が地上に及ぼされることもない。

とはいえ、私たちはこの地上において、王でもなく、支配者でも、権威者でもない。むしろ、何の肩書も持たない寄る辺のない民のように見えることであろう。

しかし、その弱く貧しい民が、キリストにあって、彼と共に、地上のすべてのものを足の下にする圧倒的な力と権威を授けられているのである。それはこの世の経済、物流、そして人間関係にももちろん適用される。

私たちが地上のものに心惹かれ、それに心を奪われてしまうと、それが人間であっても、物質であっても、その目に見えるものが私たちの心を支配することになる。しかし、正常な秩序は、それとは逆に、私たちがすべての地上のものを霊的に支配することにある。

私たちが心に抱いている永遠の望み――私たちの信じているただお一人の神、その御名が、すべての目に見えるものにまさる権威として掲げられれ、万物が、私たちの存在を通して、キリストに服従することが、神が望んでおられる正しい秩序なのである。

従って、それゆえに、内にキリストを持ち運んでいる私たちは、地上のどんなものに屈服してもならず、地上の支配よりも下に置かれてはならず、この世の経済や、人の思惑や、この地上に立てられた権威にまさる、これらを霊的に支配することのできる目に見えない霊的権威を与えられているのであって、その霊的権威を行使することによって、初めてこの地上に、御国の秩序を引き下ろすことができる。

私たちは、御子が地上におられた時にそうであられたと同様、この世のすべての物理法則、事物、人々を超越して、霊的に支配する立場に立つことができるのであり、また、そうしなければならない。

それは本当に、御子がそうであられたのと同じ、この世に渦巻く諸々の支配や思惑に巻き込まれて翻弄されることのない、この世の触れることのできない、貴い、崇高な天的な地位である。天の御座から、地上のすべてのものを統べ治める立場である。

その高い地位は、様々な試練の中で、信仰を貫き通す時に、初めてはっきりと姿を現して来る。いわば、エジプトに売られた日の幼いヨセフが、生長して、ファラオに次ぐエジプトの宰相となり、知恵と権威を持ってエジプトを治める者となって、現れて来るような具合である。

キリスト者が人生で遭遇するすべての出来事は、こうして本人の霊的成長に合わせて、スケールが拡大して行く。戦いのスケールも、霊的成長に合わせて拡大して行く。

その中で、私たちはこの世を超える圧倒的な権威を行使する術を学ぶようになるが、しかし、それは、霊的成長に伴う、霊的権威の増し加わりであって、必ずしも、私たちがこの世で、人々がその名を聞いてすぐにひざまずくような、何か圧倒的に偉大な権威を手にすることを意味しない。

私たちの権威は、地上の肩書、地位ではなく、御名に由来するものである。

こうして、御名の権威が私たちを通して地上に現れ出るために、この世の経済、物流、人の心、物事の有様、といったすべてのものを、私たちは、キリストにあって、私たちの意志の下に従属させ、屈服させていく方法を学ぶ必要がある。

それは激しい支配権の争奪戦の中で、十字架を貫き通すことで初めて可能となるが、このように、あらゆる試練の中で、信仰による確信を捨てずに進んで行くならば、不思議と、物事も、人々も、諸条件も、いずれ私たちの意志の下に服するようになるのである。

私たちの意志の下に、と言っても、私たちが御言葉に服従し、キリストにあって生きている以上、それは私たちの存在を通して、地上の事物が、御名の権威に服することを意味する。

こうして、キリスト者は、地上の諸原則をすべて足の下に従える方法を学ばなければならない。それができるようになって初めて、キリストにある新しい人――地上の堕落に巻き込まれ、触れられることのない、真に高貴な人としての霊的地位が現れ出て来ると言えよう。

異教のシャーマンや、修行僧も、物理法則を従える方法を熱心に研究している。しかし、私たちは、そういう修行を通して自己改造するのではなく、私たちの内側に与えられている新しい命の法則に従って自然に生きることにより、この世を超越する新しい法則の中を生きる方法を身につけるのである。

ただし、私たちは肉体的な修行の中を通りはしないが、日々の十字架は負う必要がある。この痛みに満ちた教訓なくして、決して私たちがヨセフのような崇高な地位に立つことはできない。

キリスト者は、神にあって自分に与えられたこの新しい命の力を開発し、知らなければならない。キリストの復活の命の中に、神がどれほど人を愛され、恵まれ、人に崇高で重い使命を託されたか、なぜ、どのような目的で、神は人を創造されたのか、その答えが凝縮されて込められている。

アダムが創造された時、神はアダムに地を治めるように求められたが、その使命は、今日、キリストを通して、キリストにあって生きる私たちに託されている。私たちはこの新たな法則――御国の到来を、人々に告げ知らせる者であり、その新しい法則を実際にこの地上にもたらし、霊的収穫をもたらさなければならない。そうして行くときに、その支配権が、不思議な形で、この世の事物だでなく、多くの人々の心にも及んでいる様子を見ることができるだろう。



さて、今月の終わり頃までに、事件が一つの山場を迎えることになる。今また大量の書類に埋もれ、準備作業の最中であるが、この正念場を超えれば、事件はしかるべき経過を辿り、終結へ向かう。悪人はふさわしい裁きを待つことになる。

今年も約半分ほどが過ぎてから、様々な手続きが以前の何倍もスムーズに進むようになった。そのおかげで、今、筆者の中では、日本の男たちに対する信頼が、随分と回復している。

この事件を通して、筆者はこれまでの人生で関わったことのない様々な職業の人たちに関わり、その中で、信念を貫き通すことの価値を学んだ。かつ、信念を持って仕事をしている誠意ある人たちに出会い、大いに助けられた。

たとえば、昼食も取らずに、事件のために電話を受け続けてくれた検察官、休日出勤までして捜査している警察官、答えに窮する質問が向けられたときに、とっさに答えてくれた裁判官、何度も裁判所に足を運ぶ中で、配慮を示してくれた書記官、それから、融通をきかせてくれた民間企業の人々・・・。一つ一つは実に些細な事柄でしかないが、それらが絶妙に相合わさって、事件の進展を大いに助けている。
 
民主党政権が自壊して、安倍自民党政権に戻って以来、日本は理念においても、経済においても、落ちぶれるばかりで、世界の四流国へと沈没しつつあるように見受けられるが、それでも、その中にあって、弱い立場にある者をかばい、正義を曲げず、真実を曲げない人間が、確かに存在していることが分かった。

そのような人々の仕事ぶりは、男であれ、女であれ、すがすがしいものであると感じずにいられない。そして、彼らの仕事を見るにつけても、やはり、筆者は筆者として、自分の信念を貫かねばならないと思う。

筆者はこれまで、何事であれ、命の息吹の感じられる方向性をひたすら探し求めて進んで来た。砂漠の中で貴重なオアシスを探し出すように、真実と誠実さの感じられる、清い命の流れが見いだせる方向だけに向かって進み、人々と接する時にも、嘘や不正がなく、真実性の感じられる主張を行う人々を探し当てて来た。そして、そういう人々に、この世の重要な用事を託し、彼らと一緒に進んできた。そうして真実、公正、正義を探し求めて生きることこそ、無駄な害を受けずに平安に生きるために死活的重要性を持つものであることを今も疑わない。

だが、そうして行く中で、かつて筆者が交わりを持ちたいと望んでいたキリスト教の信仰を持つ人々は、徹底的に筆者の周りから退けられた。これは実に逆説的な現象である。

筆者は今でも、聖書に基づくキリスト教の信仰を何より第一として生きているが、その筆者を助け、支えてくれたほとんどすべての人々は、信仰とは関係のない、この世の人々だったのである。

しかし、彼らは良識ある人々で、筆者の信仰をとてもよく理解してくれた。あるいは、理解しようと努めてくれた。たとえば、筆者は、裁判が始まるまで、裁判所とは、庶民には縁遠い場所で、裁判官というものは、ただ原告と被告の主張を見比べて、どちらに分があるかを、冷徹な科学者のようにはかり、無味乾燥で機械的な判決文を書くものと思っていたが、事実は全くそうではなかった。

むろん、すべての裁判官が良心的な人間であるわけではない。しかし、裁判官の職務の基本は、法的概念に基づいて弱者を救済することにあり、人々の訴えに真摯に耳を傾け、訴えられた被害を、自分自身の内面を通過させてその重さを理解した上で、それに対してどのような補償が望ましいかを考えることにある。

従って、裁判官は、宗教や信仰を背景にした訴えであっても、その思想的背景を無視して進むわけにはいかないのだ。自分とは異なる信仰を持つ人々の世界観をも理解し、人としての理解力、洞察力、共感能力、バランスの取れたものの見方をフル活用して、事件の真相をとらえねばならない。

それは検察、警察であれ同じである。信仰がないからと言って、信仰者の訴えを無碍に扱うことはできない。むしろ、世人は、立場は違えど、信仰を持つ人々に対して、一種の尊敬のような気持ちを持っていると言えよう。そのことが、膨大な分量の書面をもって方々に働きかけているうちに、はっきりと分かって来たのである。
 
さて、この10月に筆者は170頁に上る準備書面を用意したが、これが事件の流れを大きく変える一つのきっかけであったとみなしている。そもそもこの反駁を書き上げること自体、まさに天の采配がなければできないことだったからである。

このことの大きさを理解してもらうために、ある質問を読者に向けてみよう。

仮にあなたのもとに、弁護士が大きな文字で書いた12頁の訴状や準備書面が届いたとしよう。あなたが被告として、これに応じるとすれば、この書面に反駁するのに、どのくらいの時間を要すると思うか? 本人訴訟で応じる場合を想定しての質問である。

筆者の答えは、12頁の文書に反駁するために、最低でも1週間以上の作業が必要になるというものだ。しかも、これはただ反駁の書面を準備するためだけにかかる時間を指すのであって、事実の確認や、調査の時間は含まれない。

1週間、毎日、朝から晩までパソコンに向かい、ぶっ通しで反論を書き、ようやく12頁の書面に対する相応の反駁ができ上がるのである。その分量は、軽く30頁を超え、場合によっては、50頁以上に及ぶ。なぜなら、その文書の約半分は、相手方が記した内容の単なる引用であって、あなた自身の反論ではないからである。

つまり、誰かの主張に反駁するためには、その主張の倍以上の分量の書面が必要になるということだ。しかも、送られて来るのは、紙媒体であって、電子データではない。引用部分はすべて手打ちでデータ化する必要がある。その中には、日本語の文章だけでなく、URLや、複雑な記号、図形、あるいは外国語でえさえ、含まれているかも知れない。興味のない、読みたくない文章も、飛ばすわけにいかない。どんなに下らない愚かしい主張にも、きめ細やかに目を通し、きちんと反駁せねばならない。

多くの場合、訴訟においては、次回期日までに与えられる時間は1ヶ月以内である。先送りできるとしても、せいぜい1回か2回程度だ。だが、一般市民であるあなたには、弁護士のように、朝から晩までパソコンに向かう余裕があるはずもない。従って、弁護士に依頼するだけの資金がなければ、仕事を終えて帰宅してから、眠い目をこすりつつ、自分でその作業をするしかない。

こうした環境において、仮にあなたのもとに170頁にのぼる訴状や準備書面が届いたら、それに反駁するためにかかる時間は、一体、どれほどであろうか?

筆者の答えは、何カ月かかっても、一人で反論するのは無理だというものである。これは勇気とか決意とか覚悟の問題ではない。

170頁の文書に反駁するためには、300頁以上の分量が必要となる。しかし、文系の学術論文を例に取るならば、300頁の学術論文を書き上げるためには、昼夜を問わず、半年以上、ぶっ通しで作業する必要がある。大抵は、調査のために1~2年以上の月日が投入される。博士論文の場合は、6年程度の月日をかけて完成することも稀でない。半年で書き上げられれば、天才の領域と言えるかも知れない。

訴訟は論文ではないが、命と生活がかかっており、そもそも心理的に向き合いたくない問題がテーマとなっている点で、論文とはまた違った困難さと切迫性がある。その上、公開されている裁判ならば、傍聴も許されるため、あなた自身が、被告として一般市民の前に見世物とされる可能性がある。その上、あなたの書いた書面も、いついつまでも記録として保存され、あなたの死後になっても、まだ市民に閲覧請求され、内容が知れ渡る可能性もある。

あなたがこの裁判に臨むに当たり、どんなに仕事に追われ、書面を書く暇がなく、心理的に追い詰められていたと弁明したくても、その時には、誰もそんな弁明は聞いてくれない。あなた自身の代わりに、ただ書面だけが残り、要するに、こんな愚かしい主張しか出せない人間だったのか、それなのになぜ身の程知らずな挑発行為に及んだのかと、死後になって指摘されることが、果たして望ましいことであろうか。

そのような危険をも考慮した上で、あなたは膨大な分量の資料をデータ化し、内容を把握しながら、信憑性のある反駁を練り上げて行かねばならない。さらに、自分の主張を肉付けするために、有利な証拠を新たに探して来るのも、あなたの仕事である。

多分、そういう作業には、大半の人々が耐えられないことと思う。つまり、170頁もの文書で訴えられたとき、これにきちんとした根拠を示して自分一人の力だけで反論できるような人は、一般市民の中には、ほとんどいないのだ。

それでは、大金を積んで弁護士に依頼すれば、作業が簡略化できるかと言えば、それもあまりない。そもそも弁護士は当事者でないので、事件の詳しい事情を知らず、弁護士の作る書面には、必ずどこかに穴があると言って良い。
 
弁護士は、体裁だけは反論するであろうが、事の真相を知らないため、ほとんどの場合、正義などどうでも良く、詭弁を弄してでも良いから、形式だけを整えることが主要な仕事である。そこで、弁護士が書いた内容は、格好だけはついているかも知れないが、それで本当に勝てるかどうかは全く分からない。

勝つためには、あなた自身が、相手の主張の弱点をよく理解し、それに対する有効な反論の仕方を弁護士に伝えなければならないが、それができるくらいなら、初めから弁護士になど依頼する必要がないであろう。

そういうわけで、知的・経済的に、さしたる力を持たない一般市民が、インターネットで、軽はずみな短いコメントで他者を誹謗中傷したりしていれば、膨大な証拠資料と共に訴訟で訴えられ、それだけで一貫の終わりとなる危険がある。余命ブログの事件が良い例であるが、他者のヘイトスピーチに煽られて、分不相応な思い上がりに陥り、何の落度もない知識人らに、いわれなき憎悪と攻撃を向ければ、厳しい報いが待ち受けているだけである。

世間は、スラップ訴訟とは高額訴訟のことだと思っているようだが、請求金額だけが訴訟のインパクトなのではない。文書の内容、量もまた、非常に大きな衝撃力となりうる武器なのである。

もちろん、スラップ訴訟に限らず、あらゆる訴訟において、限られた時間内に、相手方よりも圧倒的に優位に立つ力がなければ、勝ち目はない。だが、原告であれ、被告であれ、一体、どうして一般市民がそんな巨大な負担に耐えられようか?

しかし、神が味方して下さるならば、それが可能となるのである。あなたは圧倒的な優位に置かれ、ダイナマイトのような武器を手にすることになる。神は、ご自分の権益にとって真に重要な戦いが起きれば、必ず、戦いに耐えうるすべての条件を用意して下さる。

その時、あなたは自分一人ではとてもこなせないような、とてつもない作業量を遂行することができる。ただ勝利するだけでなく、「勝ち得て余りがある」と言えるだけの作業をこなせるのである。

このように、筆者の遭遇した事件では、信仰の戦いを、信念を持って戦い通していると、ある時点で、狭い通路を抜け出し、広い場所に立たされる時がやって来た。天高く引き上げられて、余計な重荷から解放されて、広々と物事全体を俯瞰できる場所に置かれたと言って良いかもしれない。

このように、激しい戦いの中をも、勇気と信念を持って進んで行くとき、追い詰められるどころか、逆に心に余裕が生まれる。そして、自分の心の決意にふさわしい協力者たちにも、巡り合うことができる。それは、自分が信じて歩んできた道にふさわしい同志たちを見つけたという満足感の伴う貴重な出会いである。

このように、良い人たちに巡り合うためには、自分自身が生長せねばならない。日々、必要な代価を払って、自分の十字架を負い、掲げている旗を降ろすことなく、勇気を持って進んで行かねばならない。

そのとき、初めて、その歩みを喜んでサポートしてくれる人たちが現れる。女性だから、自分の主張をしてはいけないとか、男性の面子を立てるために、男性だけを優位に置いて、その下で仕えねばならないなどのことは決してない。むしろ、女性であろうと、男性であろうと、信念のために自分の命のすべてをかけて勇敢に進むならば、その時、周りの人々は自然と、その主張を理解し、助けてくれるようになる。もしもあなたが女性ならば、屈強で頼もしい男性たちが周りを取り囲み、ちゃんと目的地に着けるようにガードしてくれるだろう。

このように、自分の信念にどれだけ忠実に生きるかが、人の人生の価値だけでなく、人間関係をも決めると筆者はみなしている。人が自分のしかるべき立ち位置に立つ時、初めて、価値ある協力者が得られ、人間関係がことごとく正常化されて行く。

そういうわけで、真に魅力的な人々に巡り合い、そういう人々に取り囲まれて生きたいならば、そのためにも、私たちは、高い望みを持たなければならない。何よりも、神の国とその義を第一として生きるべきである。そうすれば、物質的な必要にも、人間的な支援にも、仕事にも、人との出会いにも、物事の巡り合わせや、経済にも、何一つ欠けることなく、すべてが天から供給されて満たされるだろう。
 
その時、初めて、どんなに困難な戦いが起ころうとも、神が味方して下さることによって、勝利をおさめる秘訣が分かる。そうして多くの勝利を勝ち取った後で、世を去る時にも、胸を張って、これで良かったと言える悔いのない人生を歩めることだろう。,主の御名は誉むべきかな。

(ちなみに、フィナーレとして用意されている書面は、民事訴訟に関するものではない。もちろん、裁判資料も追加するが、それとは別に、新たに大きなお土産が用意されている。クリスマスに向けて、苺やホイップクリームをふんだんにちりばめた巨大なケーキを作り上げているところだと言って良いかも知れない。)

一つ前の記事で、私たちの目標は、ただ自分が何とか生き延びるといった低い次元にとどまっているべきではなく、キリスト者の人生は、ただ地上の必要を満たされて生きる、などという卑小なレベルをはるかに超えて、もっともっと自由で独創的なものであるべきだということを書いた。

これまで当ブログにおいては、信仰生活において、重要な役目を果たすのは、各自の望みであり、御霊と同労する生活においては、各自の望みこそ、無から有を生み出す原動力になって行くのだということを繰り返し強調して来た。

そして、その望みとは、神の国と神の義とを第一として生きることの妨げにならないならば、どんなものでも構わないのである。

聖書にはこうある、

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」( ピリピ2:13)

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:7-11)

今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」。」(ヨハネ16:24)

「 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。 」(マルコ11:22-24)

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ15:7-8,11)

たとえば、筆者は珍しい鳥を探し求めている。そして、筆者のそのような趣味を「贅沢だ」と批判した人がいないわけではない。また、「福音の奉仕者となりたいならば、パウロのように自分をいつも身軽にしておくために、ペットなど飼うのはやめなさい」と忠告して来た人もいた。

しかし、筆者はそのような考え方が正しいものだとは思わない。伝統的なキリスト教では、あまりにも偏った禁欲主義や愛他主義が説かれており、それゆえ、クリスチャンが自分個人のために何かを望むこと自体が、まるで罪であるかのように教えられ、制限されている向きがあるが、その考えは誤っている。

クリスチャン生活とは、慈善事業ではない。大規模な福音伝道を行い、改宗者を増やすことや、困っている人々や、貧しい人々を助けることだけが、クリスチャンの目的なのではない。

もちろん、筆者は、豪奢な生活を送り、それを自慢したいがために、珍しい鳥が欲しいと言っているわけではない。庭つきの豪邸を手に入れ、そこに大型鳥のための部屋を作り、外国から特注の餌を取り寄せ、毎日のように鳥との触れ合いの写真をインスタグラムにアップする…そんな自己満足的生活を「神の恵み」として誇りたいがゆえに、以上のように言うわけではない。

もしも私たちが物欲を第一として生きるなら、その生き方は確かに根本的に間違っていると言えよう。しかし、神は地上のすべての生き物を人間のために造られ、すべての目に見える環境条件、物理法則を、人間のために造られたのである。

神はこの地上を、私たちのために恵みとして造られ、地上にあって、私たちが大いに主を喜び、その栄光を知ることができるように、万物を造られたのである。そして、それぞれの生き物に、他の種類とは全く異なる独自の生き方や個性を与えて下さった。それは人間も同じである。

キリスト者は、神にあって、自由と豊かさの中を個性的に生きる権利が与えられている。そこで、人前に敬虔な信者と見られたいがために、あれも望むまい、これも望むまいと、自分の望みを過度に制限し、あらゆる禁止事項で自分をがんじがらめにしながら、自分の心の必要を置き去りにして、人に批判されないかどかばかりを気にして、ただ他者の評価だけを求めて生きることが、クリスチャン生活の目的では決してない。

熱心に日曜礼拝に通い、奉仕と献金をし、伝道に邁進し、あるいは神学校に行くなどのことが、神が人に望んでおられる敬虔な信仰生活のモデルなのでは決してない。クリスチャン生活において、誰もが同じように指導者になったり、有名な教師やリーダーとなって人を教えることが、共通の目的では決してないのである。

信仰生活とは、もっともっと個人的なものであり、多くの場合、人がその人自身にしか分からない方法で、隠れた領域で、神と同労して生きることを指す。その中には、その人が真にあるべき自然でチャーミングな人として、誰とも異なる自分の人生をひそやかに生きて行くことも含まれる。
 
そこで、私たちは、それぞれに自分なりに他者とは異なる望みを抱いて、自分の人生を自由に個性的に生きて良いのであって、それは神の喜ばれる、神の御心にかなった事柄なのである。

そういう意味で、クリスチャンは、自分が心に抱く望みを、もっと尊重して良いのであり、大いにそうすべきである。

筆者は、そのように生きる中で、些細で個人的な望みであっても、主と同労して求めて行くならば、実にタイムリーで不思議な出会いが与えられ、それが実現の運びとなることを、幾度も経験して来た。

ただし、断っておかなければならないのは、目に見える物質的な何かを手に入れたいという願いは、人間が心に抱きうる願いの中で、あまり高い望みとは言えないことだ。どうせ願うならば、自分が何かを得て豊かになるだけで終わるような低く小さな願いではなく、もっともっと崇高で、達成困難な願いを持つべきである。ちょうど山上の垂訓のように。

ジョージ・ミュラーが信仰だけによって数えきれない孤児を養い、滅びる命を助けることに貢献したように、私たちも、一人の人間としての限界を大きく打ち破って、神の御心を大胆に実現するような、そういう願いを持つべきである。

だが、事の大小に関わらず、私たちの抱く望みこそ、人が御霊に導かれて生きるに当たり、霊的創造を行う起爆剤になるものだということは変わらない事実である。

当ブログでは、以前から、キリスト者は御霊と同労して「環境を創造する」ことができると書いて来た。各自の心に生まれる望みとは、最初はぼんやりした設計図のようなものであるが、設計図が描かれるや否や、御霊の中で、ただちにそれに沿った現実の創造が始まる。

たとえば、私たちが主にあって、何かを手に入れたいと心に願う。すると、それがどんなにかすかな願いであっても、また、私たちが現実に何もオーダーしていないうちから、霊的な世界においては、それがキリストのまことの命を経由して「発注」される。結果として、この世の物流・経済の中で、私たちの心のリクエストにかなったものが、私たちのそば近くまで呼び集められて来るのである。

そこで、私たちはそんなにも長い時間をかけて、ものすごい苦労を払って、望んでいる物品を探し出す必要がない。現実に何かをオーダーしようと決意するまでの間に、すでに願い求めたものは、私たちの近くまで送り届けられて来ている。必要なのは、所有権を移すための最後の手続きを信仰によってなしとげることだけである。

信仰生活とはこのようなわけで、神が恵みによって私たちのために用意して下さったものを、私たちが喜んで受け取り、それを自分の栄光、自分の満足のためだけに享受するのではなく、キリストにあって、御名の栄光のために、感謝して受け取り、喜び楽しむためのものである。そして、自分が満たされた分を、世の中に還元し、さらに御心を満足させるために、もっと大きな願いを心に抱いて進んで行くのである。

ヴィオロンは地上的な利益に憧れ、享楽的な生活を送りたいゆえに、今更のように「繁栄の福音」を語っているわけでなく、地上的な恵みを享受することの必要性を語るために、この記事を書いているわけでもない。

私たちクリスチャンの使命は、自らの望みによって、信仰によって無から有を呼び出して来る創造行為にあり、自分の願いを実現に至らせることによって、神の御心を満足させることが、私たちの人生目的なのである。そうして生きる時に、私たち自身にも、大いなる喜びと満足がもたらされる。そのことが、神が私たちに願っておられることなのである。

* * *

一つ前の記事で、尼僧になる夢をあきらめて、禅寺の住職の妻になったある人のことを書いた。それは、地上的には、何不自由のない幸福な生活であり、常識にもかなう、誰からも非難されることのない落度のない生き方であったろうが、それでも、筆者は、この人が自分の望みを中途で置き去りにしたことを、大変、遺憾なことだとみなしている。

筆者の考えによると、この人は、もしも自分の高い理想をあきらめずに最後までそれを貫徹して生きたならば、当然ながら、自分自身が女性住職となれたはずの人である。彼女こそ、最も重い責任を担うリーダーの役目を果たすにふさわしい人であった。それだけの評価は、彼女に早い段階で向けられていたはずである。

彼女の夫となった人は、彼女のように高い志を持っておらず、彼女のように誠意ある努力家でもなかった。しかし、彼は男性であるという利点を大いに活用し、彼女を妻として従えることで、自分にはない能力を補ったのである。

つまり、彼女が夫として、自分の主人として仕えた人間の理想は、彼女ほど高いものではなく、そのような人間が、自分よりも高潔な志を持つ人間を従えて、主人となるべきではなかったのだとさえ言えるかも知れない。

ところが、このようにして、本来、低い理想しか持っていない人間に、高い理想を持った人間が仕えさせられるということが往々にして起きる。そのために、崇高な目的が置き去りにされ、それが果たせずじまいとなるばかりか、かえって誰かの低い野望の実現の道具とされて行くのである。
 
このようにして、人が当初、抱いたはずの高い目標が、達成不可能に終わるばかりか、全くそれとは異なる悪しき目的のために利用されるという出来事が、あるべきことだとは筆者は思わない。

 (ただし、筆者はキリスト者であるから、禅寺に入って修行して悟りを得ることが、人の目指すべき崇高な目的だと言いたいがために、この記事を書いているわけではない。真理を探求する道に入った人は、答えを得るまで、決してその探求を捨てるべきでなく、自分が求めているもの以下の答えで満足することは、その人を道から逸らす誘惑になると強調しているのである。)
 
そこで、筆者はここで大胆極まりない仮説を提示しておきたい。それは、男であれ、女であれ、あるいは家柄や、血筋、財産などに関係なく、真に高潔で達成困難な志を持つ人間こそが、リーダーとして立つにふさわしいのであって、それ以下の望みしか抱かない人間は、むしろ、その人間に仕えるべきだというものである。

この世では、学歴、財産、性別、家柄、血統などによる差別が横行しているが、筆者は、人間の貴賎は、そのような要素によって決まるものではなく、かえってその人が抱く志の高さによって決まるものだと考えている。

ある人は、人間に貴賎などはない、と否定するであろうが、筆者はそうは思わない。志の高い人間と、そうでない人とが、同じだけのチャンスを与えられるべきで、同じ可能性を持っているとは考えない。しかし、志を高く持って生きることは、非常に高い代価を要求されることを意味し、それに耐えて目標を目指し続ける人間だけが、成果を勝ち取ることができる。そのため、その道を行くことのできる人たちはそう多くはない。

ヨセフと兄弟たちとの間に起きた確執はまさにそういう現象であった。ヨセフは幼い頃から、父に理由なく偏愛されたわけではなく、兄弟たちに抜きんでた志の高さを持っており、多くの賜物を与えられた人間であったからこそ、愛され、期待をかけられたのである。

しかし、そのように大きな可能性を与えられたがゆえに、その望みが実現に至るまでの間に、彼は厳しい代価を要求され、他の人々よりもつらく孤独な人生を送らなければならなかった。

筆者には、キリスト教と禅をごちゃまぜに論じるつもりはないが、高い目的を達成するために、厳しい試練が必要となることは、スポーツであれ、学問であれ、宗教であれ、どのような分野においても、変わらない事実である。
  
怠け者で自己中心な生き方をする人間ほど、努力を嫌い、自分を試されることを嫌う。そして、彼らは中途半端な努力で、大きな成果を得たいがために、自分以外の人間の誠実な努力を、自分の野心の実現のために大いに利用する。

高い志を持った人間が、そのような悪事に巻き込まれるべきではない。聖書には、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえがあるが、そこでは、賢い花嫁は、自分が真実な信仰によって蓄えた油を、怠け者の花嫁のために分けてやってはならないと教えられている。

それと同じように、志の高い人は、自分が厳しい代価を払って勝ちえた教訓や成果を、努力もせず、代価も払わなかった他人に、ただでくれてやるようなことを決してすべきではない。

人が代価を払うのは、自分の望みを実現するためであり、望む結果を実現することによって、社会全体にも、益をもたらすことができる。そうなるまで、その人は、決して自分の努力の成果を、他人に譲り渡してはならない。
 
勝ち抜いて最も素晴らしい賞を得ようとすることは、高慢さの証ではなく、真に厳しい代価なしには成し遂げられない偉業である。その偉業を一旦、目指したならば、最後までわき目もふらずに、その道を貫徹すべきであって、それを達成してこそ、人からも真の尊敬が得られる。
 
最も高い賞を勝ち取るだけの熱意も覚悟もなく、その努力も払おうとしない人間に、自分の成果を安易に与えるような態度では、その人は誰からも真の尊敬を得ることはできないであろう。
   
さて、ある宗教者が、霊的な世界においても、市場原理主義のような残酷な淘汰の理論が当てはまると吹聴しているため、筆者はこれに対し、反論しておきたい。もし霊的な淘汰の原則を振りかざすのであれば、それはまさに心の領域にこそ当てはまり、「志の高さによる淘汰」を主張するべきであると。

門地、家柄、血統、出自、学歴、性別、コネ、財産の有無、手練手管の有無などによって、人がこの世で淘汰されるかどうかが決まるのではない。極言するならば、志の低い人間こそが、真っ先に淘汰されて行くか、もしくは、志の高い人間に仕える僕の立場に置かれるにふさわしいのである。

それこそが、本来的に正しい霊的な秩序である、と言えよう。そして、この秩序が実現するためにこそ、クリスチャンは地上に置かれている。

しかし、多くの人は問うだろう、「ヴィオロンさん、それならば、なぜあなたの言う『あるべき秩序』とは正反対の現実ばかりが広がっているのでしょうか? なぜ正しい人々が罪に定められ、寄る辺のない者が虐げられ、悪者や暴君がほしいままに振る舞っているのですか。いつまでこんな時代が続くのでしょうか」と。
 
その問いには、クリスチャンが自ら目指している高い目的のために、いつまでも代価も払わず、世人と同じ目的しか目指さず、常に道を中途であきらめているからそうなるのではないか、と答えよう。どんな困難に直面しても、あきらめずに目的を目指して進み続ける人たちがあまりに少ないために、ここまで世の中が悪化した可能性を考えてみないのかと。
 
もしもクリスチャンが、神の国と神の義を第一とするという、最も崇高な価値のために、それ以外の価値をすべて二義的なものとして扱う態度を貫きさえするならば、その時、その信者の上に君臨していた横暴な主人は取り除かれ、かえって、そのクリスチャンの目的に、世人を含め、彼を取り巻くすべての人々が仕えさせられる結果となり、彼を憎んでいる敵でさえ、彼の目的に奉仕させられることであろう。

それはちょうどヨセフの作った束に、兄弟たちの作った束がお辞儀したのと同じである。愚かな人間が暴君となって民を支配している時代は、誰もにとって不幸でしかないが、高潔で憐れみの心を持つ君主が上に立てば、民は幸福になる。この地上において、真に高潔な人間が上に立って権威を担うことで、初めて霊的トリクルダウンが起き、自由と解放が行き渡るのである。
 
そのあるべき霊的な正しい秩序が実現するとき、見かけは全く平凡で弱々しい人間でしかないクリスチャンに対して、その内側におられるキリストのゆえに、この世のすべてのものが服従し、仕えさせられるという、実に不思議で逆説的な現象が起きる。

何の権威も持たない、か弱く平凡な人間に過ぎない者が、キリストと共に、すべてを足の下にするのである。しかし、それは決して、独裁者が強権的に暴力によって民を支配するような残酷な支配ではなく、自由と命による解放である。悲しむ者には慰めが与えられ、貧しい者は満ち足りて喜び、義に飢え渇いている者が正義を見て安堵する。

しかし、それが実現するためには、どのような試練が起きようとも、心の望みを決してあきらめず、自分の目指している栄冠を、決して誰にも奪われることなく、勇敢に目指して進んで行く人たちがいなくてはならない。私たちは、そのような光景を見るためにこそ、日夜、代価を払って奮闘しているのであって、その成果が着々と現れつつあることについては、追って書きたい。





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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